撮る,見る,聞く。カメラは感性を表す道具(株)ニコン ニコンフェロー 映像カンパニー 後藤研究室長 後藤 哲朗
カメラはまだメカの時代電気専攻は重宝されると入社
聞き手:工学部電気工学科のご卒業ですが,光学分野へ進まれたきっかけは。また,いつごろから光学分野(写真)に興味を持たれていたのでしょうか?後藤:父親の影響で小さいころからカメラをいじっていました。父親のカメラを借りたり,子供にはとても手が届かないカメラのカタログを集め,それを隅まで読んで楽しむカタログ少年でした。最初のマイカメラは小学生時代に祖父にプレゼントされた「フジペット」で,中学生の時には父親のトプコンを使い写真部に入っていました。高校,大学では運動部に入った関係でカメラから離れていたのですが,就職活動の際,大学の学生課で並べて掲示してある日本光学(現ニコン)とさるライバルメーカーの求職張り紙を見て,「そういえば写真はいいじゃないか」と昔を思い出したわけです。カメラはまだ自動露出もほとんどないメカ全盛の時代でしたので,電気屋として行けばそう忙しくはなく,また重宝されるかもしれないと,先見の明があったわけです(笑)。両社に願書を出しましたが,最初に日本光学の試験があり,結局さるメーカーの試験は受けることなく日本光学に入社することになりました。いまだにニコンにいてカメラの仕事をしていますから,写真が好きで良かったなと思っています。
聞き手:最初は赤外線カメラの開発に携わられていますが,電気専攻ということで機器事業部に配属されたのですか。
後藤:この当時もニコンの主力製品はカメラ,次は顕微鏡やメガネで,ステッパーの「ス」の字もない時代でした。やはりカメラ事業のほうに行きたかったのですが,電気屋ということからでしょう,医療用と工業用の赤外線カメラの開発に配属されました。ブラウン管で表示までさせる機械ですので仕事そのものは電気の塊で勉強になり,先輩にも恵まれて非常に面白かったですね。その後,世の中は赤外線から超音波のほうに流れたようで,1975年のオイル・ショックの影響もあってそのセクションは解散してしまい,カメラ設計部へ異動となりました。課の解散は寂しかったのですが,この異動は正直に申して嬉しかったです。フィルム一眼レフカメラ「F3」試作のさらに前段階のころです。結局,カメラにどんどんICを増やして自動露出と液晶表示までも実現しましたので,電気屋が大変重宝されていました。しかしF3が商品化されるまで5年ぐらいかかったことになりますから,今から考えれば信じられない時間の流れですね。残業も非常に多かったので決してのんびりしていた訳ではありませんが,皆でコツコツとやっていました。 <次ページへ続く>
後藤 哲朗(ごとう・てつろう)
1973年,千葉大学工学部電気工学科卒業。同年,日本光学工業株式会社(現?ニコン)入社,機器事業部(現インストルメンツカンパニー)でサーマルカメラ(赤外線カメラ)の開発に従事。1975年,カメラ設計部に異動,フィルム一眼レフカメラ「F3」で電気回路設計,「F4」では電気系リーダー,「F5」ではプロダクトリーダーを勤める。1997年,カメラ設計部ゼネラルマネージャーとして,フィルムカメラシステム全般を指揮。2004年,映像カンパニー開発本部長・執行役員に就任。「D3」などのデジタル一眼レフカメラ,交換レンズ群,コンパクトデジタルカメラ,アプリケーションソフトなど映像製品全般の開発を指揮。2007年,映像カンパニー副プレジデント就任。2009年より現職。