人より早く始めることでエキスパートとしてさらに上位の仕事を目指すNPO法人 三次元工学会 会員 林 洋一
機械精度の知識がなく苦労
聞き手:工学分野に進まれたきっかけと,そこから非接触三次元形状測定に関わった経緯をお教えください。林:小さいころから目が悪く,形状や色彩というものにあこがれがあった気がします。
その後北海道大学に入学しましたが,前年の安田講堂の事件があり,北海道大学でも大学紛争が盛んになり,入学式に学長が団交の場に連れ去られ,校舎が封鎖されました。中止される授業も多く,混乱の日々でした。その後,工学部へ進んでからは比較的勉強ができる環境にはなりましたが,あまり意欲はわきませんでした。
唯一興味を覚えたのはホログラフィーのデモでした。ビクターの蓄音機と首を傾ける犬の立体像に感激し,非常に興味を覚え光学講座を選ぼうと思いましたが,ジャンケンで負け行けませんでした。応用物理・計測を専攻し,卒論はレーザーを使い水の流速を測る「シングアラウンド法」に関するものでした。 卒業後は,日本アビオニクスに入社しました。この会社は日本電気とヒューズエアクラフトとの合弁会社で,もともとは日本の防空システムのメンテナンスのためにできた会社です。そこで電気検査部門,ハイブリッドIC開発,ソフトウエア部門を経験しました。この時の開発言語はアッセンブラー,FORTRAN,SYSELで,特にSYSELは後に使うC言語の習得の助けとなりました。1980年に三菱総合研究所に入社しました。当初は三菱重工・名古屋航空機製作所でF-15の導入支援や,AISという電気ユニットの自動検査装置とそれを動かすための言語FAPAの解読などを行っていました。
1984年に株式会社金花舎から受注した「胸像製作システム」で形状測定に関わることになります。このシステムは,人物の胸から上を全周まわりから形状測定し,得られた形状データをNC切削機用のデータへ変換し,人物像を削り出すもので,形状測定のアルゴリズムはそのころ発表されていた論文を基にしました。その論文では1本のスリット光を投影するものでしたが,人物が動くことを考慮し,複数のスリット光投影に変更しました。
1セットの光学センサーによる実験フェーズが成功した後,全体システムの構築に着手しました。このシステムでは大きく分けて九つの工程-光学センサーの製作(ブローニー版カメラとプロジェクター),鉄骨によるフレームに複数の光学系を人物周りに配置,複数の光学センサー同期,現像されたフィルムの読み取り,画像処理(縞の検出,ラベリング),1光学センサーの形状演算,複数光学センサーの形状データの統合(一体化),NC切削機用データの作成,NC切削機とのインターフェース作成-がありました。全体システムの構築は順調に完了しましたが,ソフトと電気は得意だったものの機械精度の知識がなく苦労しました。ただ,プロトタイプを製作し顔の形状のグラフィック表示が出た時,非常に感激したことを覚えています。ただ,最終的に精度の問題がクリアできずキャリブレーション,アライメントのプログラムを開発している時点で打ち切りとなりました。
結果は満足のいくものではありませんでしたが,前例がなく自分たちの考えで開発を進めていく高揚感がありました。幾何学形状では寸法値,自由曲面形状で作られたCADデータはありましたが,現物ありのままの形状がコンピューターに入力されることは,いろいろな活用が考えられ,以後夢中になりました。
その後1988年に「足型測定システム」に携わりました。これは,警察からの依頼で現場に残る足跡に流し込んだ石膏の型の形状を測るシステムで,出来合いの光学装置(1本のスリットによる光切断法)とXYテーブルを組み合わせものでした。次に,地雷で失った足の形状を測って早期に歩行用ソケットを製作する「断端計測(厚生省・医療福祉研究所)」に携わりました。断端の形状を全周周りから測るには,もう一方の足が邪魔になるため,形状測定装置の構造に工夫が必要でした。義足が歩行中に落ちないように,ソケットの形は数カ所で絞られていますが,その個所は神経,骨,筋肉部分を避けて脂肪などの部分であることが必要でした。
結局フィージビリティースタディーの段階で退社を決意し後任に引き継ぐことになりました。その理由は,三菱総合研究所は製品は作らず,あくまでシンクタンクであると会社が方針を出したことです。 <次ページへ続く>
林 洋一(はやし・よういち)
1950年 北海道札幌市出身1972年 北海道大学応用物理学科卒業
1972年 日本アビオニクス株式会社入社
1980年 株式会社三菱総合研究所入社
1990年 株式会社オプトン入社
2010年 株式会社オプトン退社
●研究分野
非接触三次元形状測定