【重要】技術情報誌『O plus E』休刊のお知らせ

自分の仕事に誇りをもつと同時に楽しむことを伝えたい元シチズンホールディングス(株) 社長 梅原 誠

理屈で考えるのではなくて手で考えろ

聞き手:工学分野に進まれたきっかけを教えください。

梅原:私は農家の末っ子です。長男は早くに亡くなったので,2番目の兄が家を継ぎました。頭がよく「農学校へ行き,それから岩手大学農学部へ行きたい」と祖父に言いましたが,大学へは行かせてもらえませんでした。3番目の兄は工業高校,姉も普通高校でおしまいでしたが,私が末にいたので,「おまえぐらいは大学へ行ったほうがいい」という兄弟たちの勧めと,祖父も「それぐらいいいだろう」ということで東北大学に行ったのです。浪人をしましたが。
 工学に進んだのは,就職に有利ということもありましたが,終戦直後に土煙を立てながら走っている自動車に興味を持ったこともあります。当時の花巻から釜石へと抜ける街道は,ほとんど舗装もされておらず,米軍のジープやトラックの他にはほとんど車が通らない環境でしたが,自分で行きたいところへどこへでも行けるということにあこがれもありました。それでその方面に進みたいと思ったのです。
 東北大学は,自動車工学が非常に盛んでした。エンジン回りの燃料噴射の仕組みとか,変速機とかクラッチなど,ミッション周りといった機構学が盛んな学科がありました。戦前のエリート学科である航空学科は,戦後マッカーサーの命令で航空関連の研究は停止させられて,その後7年間は研究することができず,私の入学する5年ぐらい前から精密工学科と名前をかえて,エンジンや歯車を研究していたのです。ですから私は自動車をやるために,東北大学の精密工学科に入り,仕組みに関することを勉強しました。
 大学では,長野の伊那の出身で,東北大学を卒業した酒井高男先生に教えていただきました。東北大学というのは昔から女子にも門戸を開いた大学で,大変にオープンでした。高専経由の東北大学出身の先生も多く,米沢高専からうちの学科だけでも3人,4人はいらっしゃっていました。私より18歳年上の酒井先生でしたが,非常に人情味のある方で機構学を教えてくださいました。
 戦前,日本軍が三国同盟を結んだ後,ドイツのほうが潜水艦や大砲などの造兵関係が進んでいたので,日本から技術将校を派遣していました。その時にヒトラーから「ドクター成瀬はお元気か」と尋ねられたと言われています。「ドクター成瀬」というのは,成瀬政男先生のことで,歯車の歯型を数値解析した最初の人で千葉のご出身ですが,その人の弟子が,私の先生だったのです。
 研究内容としては,例えば自動車で言うと,デフギアといって,エンジンから回る軸は車体と並行ですから,これを車輪の向きに90度傾けなければなりません。昔の機械的な車だと,差動歯車といいまして,曲がり歯傘歯車というので水平方向に軸を回転させます。エンジンの回転やその曲がり歯傘歯車などの数値解析,それからインボリュート歯形についての解析やアルキメデス渦線の分析をしていました。
 この研究室に入ったころには歯車はほとんど解析し終わっていましたので,あとは,転造歯車とか安く作る歯車とか,生産技術の開発をしていました。
 その時ちょうど先生が教授になりたてでしたので,本当なら6人を指導しなければいけないところが,たった4人でした。ですから2人が曲がり歯かさ歯車,私を含む残りの2人はコンベヤースケールにおける積算計をやることになりました。コンベヤースケールというのは,ベルトコンベヤーで,例えば土木現場で,土をぼんぼん載せていきますが,どのぐらいの土の量を送り込んだかというのを,ベルトの下にセンサーを置き,モーターの回転数を積分することで,積算した土の量が分かりますが,その開発の初代をやったのです。
 先生からは「頭,理屈で考えるのではなくて手で考えろ」と教わりました。要するに「現場的な発想でやりなさい」という意味です。そのころはちょうど塩化ビニールの水道管が出たころでした。水道管を町で買い,磁場に影響されない軟鉄鋼をコアにして塩化ビニールの水道管の外側にコイルを巻いて差動トランス型センサーを作りました。理論と現物を作りました。卒業の時に,学科の重鎮であり,エンジンにうるさい棚沢先生と,私の先生の先生である成瀬先生のお二方から「いいんじゃないの」と仰っていただけました。
 そのころうちの学科では,夏に工場実習が必ず1単位義務付けられていました。それで,大学3年生の時に,東京計器製造所という蒲田の会社へ行き,軸受けの分析をしました。
 次の年はシチズンに行きました。長い材料を削り時計の部品,軸とか歯車とか歯車のブラグとかを作る自動旋盤というのがあります。その実習でした。切削テスト,それから外部の振動を与えたときにどう影響するかというもので,約ひと月いたのですが,現場の実験とデータと理論的な分析を一緒にレポートにして出さなければいけないのです。
 最終日に20ページぐらいのレポートをまとめていると,雷鳴で停電になってしまいました。指導官に電話して仙台へ帰ってからまとめ上げることにし,その後,レポートを提出すると,この指導官,後のシチズン時計春田博社長が何を間違えたかダブルSという点数を付けてくれて,人事部からは「こんなのない,間違いだ」と後日入社後聞かされました。
 その2週間前には,シチズンの当時の社長,総務部長と技術部長の3人に採用面接を受けていました。昔は試験でなく面接で採用を決定していましたので,たぶん大丈夫だろうし,レポートも出したからいいだろうと思っていたところ,無事に合格通知が来ました。
 私はシチズン時計には時計をやりたくて入りました。私の先生は時計学を教えてくれていたので,私のゼミからは,精工舎に1人,シチズンに1人と,同じ仲間がそれぞれ分かれたことになります。
 面接の時にも「時計の研究開発か生産技術をやりたい」と言っていたのですが,入ってみると,1年前の夏の実習の時にお世話になった課長さんが「梅原君,こちら」と呼ぶので,がっかりしてしまいました。

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梅原 誠

梅原 誠(うめはら・まこと)

1939年 岩手県生まれ 1962年 東北大学工学部 精密工学科卒業 1962年 シチズン時計(株)入社 1989年 シチズン・マシナリー・ヨーロッパGmBH社長 1993年 シチズン時計取締役 1998年 シチズン時計常務取締役 2002年 シチズン時計(株)社長 2007年 シチズンホールディングス(株)社長 2008年 シチズンホールディングス(株)取締役相談役 2009年 シチズンホールディングス(株)特別顧問 2010年 同退任
●主な活動・受賞歴等
(財)日本卓球協会顧問 
(財)日本卓球リーグ連盟名誉顧問
在京岩手産業人会顧問
東北大学機械系同窓会名誉会長
岩手県奥州市大使
岩手県花巻市イーハトーブ大使
2001年 ドイツBaden Wuerttemberg州経済賞(団体)
2006年 藍綬褒章
2010年 岩手県「県勢功労賞」

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