人々の役立つ製品を作り出すのはとても楽しく非常にエキサイティングだったアリゾナ大学名誉教授 JAMES C. WYANT
政府によって機密にされたが,非常に楽しく刺激的だった
聞き手:工学分野に進まれたきっかけ,また,工学に魅了された理由などをお聞かせください。ワイアント:私は幼いころから科学,工学に興味を持っていました。5歳のころ,私はあるワークショップに参加し,そこで大学に進みたいと思うようになりました。大学では物理学を専攻しました。物理学のほかにも,数学,電気工学にも興味がありましたが,物理学は他の二つよりもより一般的に思え,とても魅了されたので物理学を専攻したのです。
大学三年の時に,私はリビー・オーエンス・フォードという会社で夏の間働きました。それが初めて光学領域の専門に触れる機会でした。そこで私はホログラムを初めて見る機会があり,とても驚きました。それはステープラーのホログラムでしたが,それは非常に精巧で目の前のステープラーをつかもうと手を延ばしても,実際につかむことはできませんでした。その光景に私は非常に興味と興奮を覚え,光学の勉強をしようと思ったのです。
1964年当時,米国で光学を研究するのであれば,ロチェスター大学が最高の場所でした。ですから私はロチェスター大学の大学院に進み,博士論文をとりました。
博士論文は「ホログラム再生における感光処理の効果について」でした。
卒業後,私はItek社で働くことにしました。6年間勤めましたが非常に良い経験でした。
Itek社での最初の仕事は,光学素子をテストする方法を開発することでした。私はローマンの計算機ホログラムの論文を読み,それがその仕事に有効な事が分かり活用していました。その後に,私たちは今「補償光学」と呼んでいますが,当時は「アクティブオプティクス」と呼んでいたものを研究しました。位相シフト干渉法などです。
最初の2~3年は,アクチュエーターを使用することで,大きなミラーを制御していました。波面を測定し,アクチュエーターにフィードバックするために,位相シフトシェアリング干渉計を使用していました。私の記憶が確かなら21個の検出器を持っていました。5×5のうち4つの角がかけていたのです。いまでは100×100画素や1000×1000画素が当たり前になっていますが。また,位相シフトを適用するために,鏡を動かしますが,そのために10個ほどのアクチュエーターを使用していました。
当時Itek社では,初めて宇宙に打ち上げられたバルーンや航空機,衛星などに使われる光学系を手掛けていました。
その中の一つにソ連(当時)の衛星を観測するために大気擾乱の補正にも取り組みました。その結果,非常にクリアにソ連の衛星を観測することができ,そのためのシステムも構築しましたが,それは当然機密扱いになりました。私たちは1つの論文を発表し,それに関しての1つの短い講演をしたところ「それ以上は言うな」と政府に言われたのです(笑)。
政府によって機密にされましたが,非常に楽しく刺激的な仕事でした。これは1969年から1970年にかけてItek社で行っていた仕事でしたが,私がアリゾナ大学に行くまで発表しませんでした。 <次ページへ続く>
JAMES C. WYANT(じぇーむす・C・わいあんと)
1968年 ロチェスター大学 PhD(Optics) 1968年-1974年 Itek社 1974年 アリゾナ大学助教授 1976年 アリゾナ大学准教授 1979年-2013年 アリゾナ大学教授 1994年-1997年 WYKO社 代表取締役社長 2005年-2012年 アリゾナ大学光科学部学部長●研究分野
ホログラム.干渉計
●主な役職等
2007年 OSA会長 1986年 SPIE会長 American Institute of Physics 会員 OSI Lifetime Fellow OSJ International Advisory Member OSK名誉会員