【重要】技術情報誌『O plus E』休刊のお知らせ

技術力とは,欲しいと言っている人がいたら,それを作ってあげることアストロデザイン株式会社 鈴木 茂昭

私の原点はアマチュア無線からはじまった

聞き手:まず,エレクトロニクスに興味を持ったきっかけから教えてください。

鈴木:小学生時代に,兄から鉱石ラジオのキットをもらって作ったのが始まりで,音が聞こえたのに感激したからです。もともと模型作りが得意で,小学生の頃,グライダーとか模型をよく作ったのです。学校で飛行距離を競ったりすると,いちばんよく飛んでいました。
 当時,ラジオはすごく高級品で,各家庭に1台あるかないかという時代でした。鉱石ラジオは簡単な構造ですが,同じように聞こえるその感激が大きかったのです。
 ものを作ると,原理を理解する速度が速まります。ほとんどの人にとっては,電子機器のようなものは利用するのに,別に原理を知っている必要はありません。しかし,技術競争社会の中で他社の先を行く新製品を創出してゆくためには,原理を正しく理解していることがとても大切です。最近わが国の製造業の国際競争力が低下しているのは,このあたりに原因の1つがあると思います。誰かが作った高性能な製品を使いこなしたり,遊んだりしているだけでは,クリエイティブなことは,ほとんどできないと思います。鉱石ラジオの後は,真空管ラジオを作りたくなり,これも友達からもらった古いラジオや壊れたラジオの部品を取り外して再利用して作りました。
 また,当時は電子機器の製作を主題にした月刊雑誌がたくさん発行されていました。現在も,『MJ無線と実験』,『ラジオ技術』,『CQ hamradio』等は残っていますが,その他の多くの雑誌がなくなりました。当時,私が最初に読んだのは『ラジオの製作』という,入門者向けの雑誌でした。
 最初は記事中に書かれている内容や回路図が理解できなかったのですが,何回も繰り返し見ていますと,何となく理解できるようになってきました。
 そういった記事を参考にして,分解したラジオの部品を使って,比較的シンプルな構造の0-V-1(ゼロ・ブイ・ワン)と呼ばれるラジオを作ったのです。中波だけではなく短波も受信できるものでした。
 その0-V-1を聞いていると,ある日,ものすごく強い電波が聞こえました。私が育ったのは四国の松山市ですが,すぐ近所にある三越デパートでアマチュア無線の公開実験をやっていて,そこから電波を発信していると言っていました。すぐ三越の最上階の公開実験会場に行き,無線局を運用していた高松さんというアマチュア無線家と親しくなりました。私より20歳も年上でしたが,たまたまご自宅が私の家のすぐ近くであったこともあり頻繁に遊びに行くようになったのです。その方からアマチュア無線とは何かからいろいろご教示いただき,また松山近辺のアマチュア無線家の組織「松山ハムサークル」にも参加させていただきました。そのころ(昭和33年)に電波法が改正になって,日本のアマチュア無線資格は1級と2級だけだったのが,電信級,電話級が増えて4つになりました。新制度に基づく国家試験が,昭和34年に始まりました。この法改正を受けて「松山ハムサークル」では,中学生向けに無線の国家試験の講習会を開催することになりました。私もその講習会に通い,昭和34年2月に行われた第1回の国家試験を受けて運良く合格しました。すぐ免許申請をして,実際に開局できたのは昭和34年6月だったと思います。当時,四国で最年少14歳のアマチュア無線家でした。開局するための役所の手続きも,全部ゼロから自分でやりました。
 私の原点は,すべてアマチュア無線です。アマチュア無線があまりにも面白くて,やることが全部初めてのことばかりで,興味のあることがどんどん出てきます。当時もメーカー製の無線機はありましたがとても中学生の買えるようなものではなく,また無線機を自作することがアマチュア無線という趣味の大きなステータスでした。ですから,送信機も受信機もアンテナも自作でした。その自作品も動けば終わりではなく,何かを変えると性能が上がります。工夫するほど良くなるので,ものすごく面白いわけです。
 そうすると,もう限りなく自分の知らないことや知りたいことが,たくさん目の前にあるわけです。今のように,ネットで調べたりできないですから,その知識は,誰か知っていそうな人に聞くか,そうでなければ本を読むしかないのです。ですから,ほとんど本屋に行って,立ち読みで雑誌から情報を入手しました。
 こんなに面白いことなので,これを生涯の仕事にしたいと思い始めました。そのためにはどんな職業に就けばいいのかを考えた結果,国際航路の船に乗って,プロの無線通信士として世界中を回る人生を送りたいと思いました。そのためにはどうすればいいのか。当時,香川県に国立詫間電波高校という,無線技術士,通信士を養成する高校があったので,そこに行けばいいとの結論に達しましたが,父親から大反対にあって結局受験すらできませんでした。
 私の父親は県庁の土木の技師でしたが,専門学校卒のため学歴社会の苦労を味わった結果,自分の息子には同じ苦労を味わわせたくないと強く思っていたようで,電波高校への進学は納得してもらえなかったのです。その結果,私は地元の松山東高校に進みました。それでも大学には進まないと,好きな無線で生きていく道もなくなるので,何とか人並みの成績が取れた理科と数学で合格できそうな大学を探しました。
 調べていくなかで,東京電機大学は400点満点のうち200点が数学で,範囲は私の比較的得意な微分積分を主体とした数Ⅲの問題が集中して出題されていることを知ったのです。あとは100点が物理で,残り100点が英語だったのです。それに,この大学は秋葉原のそばにあるので,これは私のために作られた学校に違いないと思いました。運良く合格し入学してみると,私と同じように,高校時代は勉強よりアマチュア無線やオーディオにはまっていたような,マニアックな,今でいうとオタクのような連中だらけで,この大学を選んでよかったと思ったものでした。

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鈴木 茂昭

鈴木 茂昭(すずき・しげあき)

1945年 愛媛県松山市生まれ 1967年 東京電機大学卒業 同年 リーダー電子株式会社入社 1972年 同社退社 同年 インターニックス株式会社入社 1977年 同社退社 同年 アストロデザイン株式会社創立 1979年 プログラマブルビデオ信号発生器を開発 1995年 世界初のHDTV用デジタルクロマキー装置を開発・販売。

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