「パーソナルブランドを磨こう!」シグマ光機(株) 代表取締役社長 森 昤二
焦熱地獄で鍛えられた精神力
聞き手:本日はよろしくお願いします。シグマ光機(株)は今年,創立35周年記念の年と聞いています。創業者のお一人である森社長から,会社設立の経緯やご苦労された点などについてお話をうかがえますでしょうか?森:わたし自身は,光学部品関連の仕事に就いて今年で40年になりました。シグマ光機創立前の5年間と創立後の35年間を合わせるとこの期間になります。光学にかかわる前は,名古屋大学の大学院工学研究科修士課程 化学工学専攻を修了し,1968年にセントラル硝子(株)に入社しています。同期のほとんどは,当時全盛だった石油化学関連やプラント関連に就職しましたが,ご多分に漏れずわたしも彼らと同じような道をたどりました。
セントラル硝子では,新入社員研修として大阪府の堺工場(板ガラス)や山口県の宇部工場(ソーダ,肥料)における実習を経て,三重県の松阪工場に配属されました。当時,松阪工場では,社運を賭けてフロート板ガラス生産ラインの建設が始まったところでした。イギリスの大手ガラスメーカーから技術を導入しつつある時期で,いろいろな意味で良い時期の入社だったといえます。日本の板ガラス業界では大企業の3社がしのぎを削る中,トップの旭硝子(株)と2番手の日本板硝子(株)はすでにフロート技術を導入済みで,これに遅れれば3番手のセントラル硝子に「明日はない」という切迫した状況でした。
わたしにとって,最新鋭のフロート技術は大変面白く,百戦錬磨の上司や先輩に恵まれ,さらにイギリスの技術者たちとの交流もあり,汗みどろになって夢中で過ごした時期でした。翌年,フロート板生産は極めてうまくスタートでき,その後の厚板や薄板の各種新技術の導入も成功して,生産は安定化していきました。この時に上司や先輩からしっかりと鍛えられ,仕事の仕方を教えてもらったことは,その後の起業において強い精神力として役立ちました。これがセントラル硝子時代の最大の財産といえます。
板ガラスの生産現場は“焦熱地獄”と言って良いほど暑いものです。長大なプラントの中心部を占める耐火煉瓦でできた巨大な溶融炉の中は1550℃の白熱状態で,それを覆う建物の中は冬でも暑く,夏に至っては焦熱無間地獄そのものでした。暑さに弱いわたしにとって熱間作業は全く体に合わず,それでも耐え忍んで仕事を続けましたが,次第に「いつかは脱出したい」というエネルギーが心の中で高まっていきました。セントラル硝子では5年足らずの在社でしたが,その時お世話になった優秀な上司の方や諸先輩,そして耐え忍ぶ精神力を培ってくれた会社の土壌には,今もって大変感謝しています。
森 昤二(もり・りょうじ)
1968年に名古屋大学 大学院工学研究科修士課程を修了。同年,セントラル硝子(株)に入社。松阪工場のフロート板ガラス生産ラインに配属。1972年に同社を退職して,兄の森基氏が経営する(株)日本量子光学研究所に入社。1973年にモリトクを起業。1977年にシグマ光機を森基氏,杉山茂樹氏とともに設立し,取締役に就任。1989年に同社 専務取締役。1993年,同社の海外子会社である上海西格瑪光机有限公司の董事長総経理(2006年まで)。1999年,同じく海外子会社のオプトシグマコーポレーションのCEO(2003年まで)。2006年に同社 代表取締役社長に就任し,現在に至る。