研究は面白いから続けられる。(前編)Marine Biological Laboratory 井上 信也
生物学との出会い
聞き手:井上先生のご専門は生物学で,「Shinya Scope」と呼ばれる画期的な偏光顕微鏡を開発され,細胞の染色体や核の分裂に重要な役割を果たす「紡錘体」を世界で初めて生きた細胞で観察されたそうですが,先生が生物学者となったきっかけからまずお伺いできればと思います。先生は1944年に東京大学の理学部動物教室を卒業されたということをお聞きしましたが……
井上:そうです。東大の動物教室に入りましたが,実は物理か機械をやりたかったのです。しかし数学が苦手だったこともあり,進学の際に物理の先生から,物理教室や工学部は難しいから動物にした方がいいと言われ動物教室を選んだのです。
私は,小さいときから機械をいじったりするのが好きで,携帯のラジオを作ったり,蒸気機関車の模型を作ったりしていましたから,それで物理や機械をやりたかったのです。
聞き手:戦前にラジオや蒸気機関車の模型を作ったりというのは珍しいのではないですか?
井上:父親が外交官だったこともあり,小学校までは海外で暮らしていましたから,当時の日本の子供とはちょっと違った生活をしていたかもしれません。イギリスで生まれて,アメリカへ行き,オーストラリアへ行って日本に戻ってきました。
聞き手:戦前の時代の帰国子女というのは,ちょっと想像ができない「雲の上」のお話ですね(笑)。
先生は,先ほど生物学の道は希望して進まれたわけではないとおっしゃられましたが,それが一生の仕事となったのはどのようなことがきっかけだったのですか?
井上:きっかけというのは,高校生(旧制)のときに團さん※に出会ったことです。團さんの授業はほかの先生とはまったく違っていました。教室に初めて来られたときも,黒板の前にある大きな机にちょこんと座って,「今日は何の話をしようか」といった感じなのです。日本の先生と違っていたのが面白かったのです。それで,実習のときなどは,「何か面白いことをやってみたくないか」と聞くので,「どんなことをするのですか」と聞き返したら,「アメリカのウッズホールにある海洋生物学研究所で純鉄の針金と硝酸を使って神経の情報伝達実験をした研究者がいるが,その実験をやってみるか?」と言うのです。それで,「これは面白そうじゃないか」ということで,やってみようとなり,3人一組で実験を行ったのです。実験は,純鉄の針金を手に入れるところから始めましたが,今と違って当時は簡単に買えません。ですから,電信柱のところに結わえてあった鉄の針金をはさみでこっそり切ってきて使いました(笑)。この実験は「Lillie’s iron wire model of nerve conduction」と呼ばれるもので,純鉄の針金を濃硝酸に浸したときに起こる“不動態化(passivate)”現象を利用することで行われます。
鉄は濃硝酸で不動態化されると,表面から一時的に茶色の反応物質が雲のように出てすぐに消えてゆきます。そうして眼に見えない薄い不動態膜が鉄線の表面にできてきて,その鉄はもう硝酸に反応しなくなります。その濃硝酸に浸されている針金の一部にキズをつけたり,弱い電圧をかけて刺激を与えたりすると,神経のように刺激が針金を伝わって行く様子が観察できます。この刺激の伝わる様子というのは,「茶色の雲のようなモヤモヤが鉄線を伝わってスーっと移動する」といった感じです。
実験によりこの現象を見たわれわれは,なぜそのようなことが起こるのか議論になりました。私の成績はクラスの下から数えた方が早かったのですが(笑),チームの他の二人は,クラスでトップを争う優秀な学生で,その優秀な彼らは,「これは化学変化による現象である」と主張したのです。一方私が主張したのは電気的な変化によるものでした。
私の考えは,刺激を与えたことにより針金の不動態膜が壊れ,裸の針金と膜の壊れていない部分との間に電位差が生じ“活動電流”が発生したというものです。活動電流により被膜の破壊が進行するものの,その部分はすぐに硝酸により再度不動態化され,茶色の雲のようなものがスーっと動くと考えたのです。
それで,電気変化か化学変化かの議論に決着を付けるため,私はある実験を提案しました。まず不動態化された鉄線を乾いたガラスの上にそっと置きます。そしてその鉄線の真ん中あたりを直角に渡るように,ロウかワセリンの土手を少し離して2本作ります。土手の間は5mmぐらいで,その部分は鉄線が空気にさらされ,両端は硝酸の小池に浸るようにします。その状態で片方の小池に浸っている鉄線を刺激すれば,もちろん刺激はロウやワセリンの土手まで進んで止まってしまいます。ところが,両方の小池を誘電体(銅線か細い管に入れた食塩水)で繋いでから片側の小池にある鉄線を刺激すると,刺激の伝導が局部的な電圧の変化によるものであるならば,電圧の違いは誘電体を通って向うの小池に現れ,そちらの鉄線が刺激され茶色の雲が現れて動いていくはずです。それで実際に実験してみると,見事に刺激が反対側の小池の中の針金に伝わったのです。
- ※團 勝麿 (だん かつま):1904年~1996年。日本の発生生物学者。東京都立大学名誉教授。理学博士
聞き手:楽しそうな授業の風景が目に浮かんできますね。
井上:それで團さんはというと,われわれの実験をニコニコしながら見ているのです(笑)。
そのようなことを勝手にさせてくれました。それで面白くなって生物が好きになったのです。生物というと昆虫採集を小さいときにやったことがありましたが,そういうのはあまり好きではありませんでした。
聞き手:お聞きしたところ,先生は数学で落第されたことがあるそうですが,それは本当ですか?
井上:落第しました(笑)。幾何学は面白かったのですが代数などはあまり得意ではありませんでした。それでもロチェスター大学に行ったときには,物理の学生に光学を教えなさいということで,そのためにある程度数学を使わなければいけなかったので,使えることは使えますけれども,難しい式などは分かりません(笑)。幸い物理の連中で数学ができる先生は,こっちは難しい式を出されると分からないことを知っていますから分かるように説明をしてくれます(笑)。そのようなことで数学は苦手でした。
それと漢文も全然だめでした。漢文はご存じのように「レ点」や「一二点」などがあるでしょう。これがどうにも好きになれなくて……
学校の勉強は團さんに会うまではちっとも面白くありませんでした(笑)。