研究は面白いから続けられる。(後編)Marine Biological Laboratory 井上 信也
Jean Clark Dan
聞き手:前回は,團先生の奥さんで同じく生物学者のジーン先生の取り計らいにより,井上先生がアメリカのプリンストン大学に行かれることになった経緯をお聞きしましたが,今回はその続きをお伺いできればと思います。井上:ジーンさんにはそういったこと以外にもお世話になりました。ジーンさんは戦時中は團さんといっしょに日本におられたのですが,三崎の臨海実験所の近くに長井という町があって,そこはもともと畑だった所に海軍が飛行場を作って戦後はアメリカ軍に接収されました。
当時ジーンさんは,長井の婦人会で手伝いなどをしておられましたが,その接収した飛行場を米軍が将校用の住宅にすることになったときに,ジーンさんが米軍と交渉して,土地の半分ぐらいを返してもらったのです。それで,長井の町の人たちはジーンさんを「長井の神様」と呼んでいました(笑)。そのお礼ということで町の人がジーンさんにいくらかの謝礼金を渡したのですが,そのお金をジーンさんが私にくれ,三崎にいたときはそれで食っていました(笑)。
ジーンさんは,その後お茶の水女子大学に行かれ,千葉の館山に臨海実験所を作られたりしました。
聞き手:團先生,ジーン先生のエピソードを聞いていると,今の日本人が忘れている何かを感じます。今の日本の政治家や企業は,このような心を忘れているような気がします。
渡米
聞き手:ここで,アメリカに渡られてからの先生の研究生活についてお聞きしたいと思います。先生は1948年にアメリカに渡られていらっしゃいますが,今と違って戦後間もない時期の渡米は非常に大変だったのではないですか? また,その費用はどのように工面されたのですか?
井上:はっきりとは覚えていませんが,パスポートはたしか戦後50番目のパスポートだったと思います。費用に関しては,ジーンさんの妹のペギーさんがコネチカット州に住んでおり,ジーンさんを通して私に貸してくれたのです。ですから,全部借金でアメリカに行ったわけです(笑)。その借金は,フェローシップで2~3年の内にすべて返すことができました。
ジーンさんの紹介があったせいかもしれませんが,プリンストン大学へ行ったら,先生たちとすぐに友達になることができました。アメリカは若い先生と学生との間にあまり隔たりがないことが一つの理由だと思います。
聞き手:ここで,ちょっと團先生のことについてお伺いしたいのですが,なぜ團先生はウッズホールの海洋生物学研究所(MBL)で「ケイティー(Katy)」と呼ばれていたのですか?
井上:それは,團さんがアメリカ人の女の子に,「團の名前は何か」と聞かれたときに,ちゃんと答えるのが面倒くさくて「ケイティー」と冗談で言ったのが広まって,それでみんなが「ケイティー」と呼ぶようになったのです。ご存じのように,ケイティーは女の子の名前です(笑)。もともとは團さんの友達が彼を“KD”と呼んでいたことから始まったのだと思います。
聞き手:“Katsuma Dan”で“KD”になり,それが“Katy”になったわけですか。なるほど,今まで不思議に思っていたのですが,ようやくその理由がわかりました(笑)。