特別編(下)「良いものをつくるには,分からないことをひとつひとつ解き明かす必要がある」光産業創成大学院大学/浜松ホトニクス(株) 晝馬 輝夫
債権者の“応援団”
それで「それじゃあ帰るか」ということで,とりあえず大阪にいた親父の兄貴に電話したら「お前生きてたのか」と言われて。それで伯父の所へ行ったらうちの舎弟が迎えに来ていて,浜松に連れて帰られたわけです。それでまぁ,帰ったらすぐに爺さんの所にあいさつに行けということで,「どうも申し訳ないことをした」と謝りに行ったら,いつもはガミガミ言う爺さんが目に涙をためて「よう帰ってきた」と言ってくれてね。一言も小言を言われなくて。
そしてすぐに債権者会議に引っ張って行かれたわけですが,裏で爺さんがどういう手を回したのか知らなんだけど,債権者も皆が皆「お前みたいな若造に,俺たちみたいな大会社の一流の人間が騙されたと言われたんじゃコケンに関わる。したがってもうグズグズ言わんで勘弁してやるから,これからは真面目に働けよ」ってなもんで(笑)。というのも,店はつぶれたけれども,私が一生懸命働いていたことは連中もよく知ってたもんですからね,何か債権者会議が応援団による再出発式みたいなことになっちゃって。
それでまぁ,その債権者のうちの1 人が,ちょうど浜松に飼料を扱う店を出すというもんで,しばらくそこで働かせてもらって。前のときは資金繰りのために物を売って,もうけも少ないし,とにかく現金でやらにゃぁしょうがなかった。だけど金のあるやつの商売というのは「元がこれだから,これ以下じゃ売れん。それで嫌ならよそへ行け」ってなもんで。そこで初めてもうけ方を学んだわけです。
高柳健次郎さんの技術を継いで
オフクロの友達で浜松高等工業の教務課の高橋先生という面白い人がいまして。学生の時分から,先生と私ともう1 人,羽生というのと3人でよく集まって,酒を飲んで沢庵をかじりながら,天下国家をどうするこうするって話していた(笑)。飼料の店で働くようになって,商売のコツも分かるようになった頃でしたか,「うどん粉やら砂糖やら鶏のエサやら売ってても,これもまぁ先行き・見込みがあるわけじゃないなぁ」と,そんなことを考え始めたときに,その高橋先生の弟で堀内平八郎という人が「高柳健次郎先生から光電面,光電管を作る技術を教えてもらってきたから,一緒に光産業の新しい会社をやらないか」と声をかけてくれました。これは今までやっていたようなインチキ商売ではなくて,1 つの芯になりそうだと言うのです。それで「浜松テレビ株式会社(現浜松ホトニクス)」というのをつくって,私も一念発起してなけなしの金を出資しました。それが27 歳のときです。それで光電管を作り始めたわけですが,これがまた楽じゃない。だいたい虎の巻があるわけじゃないですから。