若手は幅広くチャレンジしてほしい(株)ニコン 市原 裕
国際規格の仕事を担当
聞き手:その後,ご経歴によれば精機事業部に異動されたのですね。精機事業部というと,まさに半導体露光装置の担当部門ですね。市原:ええ,そうです。最初にやらされたのはX線を使った露光装置で,当初から「これはだめだ」と思いました。学生時代にX線ホログラムをやっていたのですが,そのときは点光源を作って露光していたので,ものすごく光が弱かったのです。ですから,一晩中かかって露光しているような状況でした。学生だからできたのですが,正直,「そんなものを露光装置に使うなよ」と思いました。また,研究しているうちに「マスクができない」ということが分かってきて,「これはやっぱりだめだ」と(笑)。それで途中で逃げ出して,当時,始まったばかりのエキシマレーザーを使った露光装置にくら替えしました。
聞き手:エキシマレーザーはKrFから入られたのですか?
市原:主にKrFを研究していました。わたしがやり始めたときは,普通のKrFレーザーを使っていたのですが,KrFレーザーというのはスペクトル幅がすごく広いのです。中心波長は248nmですが,スペクトルの半値幅が0.4nmぐらいあったのですね。0.4nmというと「狭い」と言う人がいるかもしれませんが,レンズ設計から見たらすごく広いのです。このくらいのスペクトル幅だと硝材(レンズの材料)1種類だけでは必ず色収差が出てしまいます。ですから,レンズに違う種類のガラスを組み合わせて色消しするか,もっと波長幅を狭くするか,どちらかしないと使い物になりません。
最初は割と小さなエキシマレーザー露光装置だったので,普通のレーザーを使って,蛍石と石英を組み合わせて色消ししたのですが,量産用の大きな露光装置にすると,色収差が取り切れません。また,大径で均一な蛍石レンズが作れないという問題もあり,どうしても石英レンズだけで作らなくてはいけないという制限が出て来ました。そうすると,スペクトルの半値幅を0.4nmから3 pm(ピコメートル,0.003nm)以下にしなくてはいけないということになりました。そうしないと色収差が取れません。実際には,1pm以下にしなくてはいけなかったのですが。
そんなレーザーは世の中に無かったので,世界中のエキシマレーザーメーカーを回って「作ってくれ」と頼んだりしました。また,レンズの製造がもう始まっていたので,評価するのに狭帯域のレーザーが必要になりました。そこで,普通のレーザーを買ってきてエタロン(ファブリ・ペロー干渉計)を入れて狭帯域化したり,そういうことをやっていましたね。
聞き手:大変なことをやられていたのですね。
市原:ええ。しかし,スペクトルを狭くすると,今度はスペックルが出てきます。それを取り除かなければならないということで,いろいろなことをやりました。具体的には,ミラーを振ってコヒーレンスを落としたりしています。
聞き手:昭和63年に光学部開発課というところにご異動されてますね。「ISO(国際標準)にかかわる」とありますが,これはどのようなお仕事だったのですか?
市原:わたしが主にかかわったのは「TC(Technical Committees )172」という光学の標準規格を作る委員会です。その中にSubcommitteeが1から9まであるのですが,ちょうどそのころSubcommittee 9(SC9)ができたのです。これはレーザー光学の標準規格を作るところで,その話が精機事業部に来て,精機事業部は忙しいということで,ちょうどわたしが光学部に移ったばかりだから「おまえやれ」って(笑)。
さらに,SC9の中にはワーキンググループが1から6まであって,6がレーザー光学部品の担当だったのです。そこで最初にやったのは,レーザー用の光学部品の標準部品を決めるということでした。ニコンには直接関係なさそうですが,シグマ光機(株)やメレスグリオ(株)にご協力いただいて規格を決めていきました。
また,レーザーダメージスレッショルドの測定法を決めるという話もあって,こっちはニコンにとってすごく大事な規格でした。しかし,規格を決めようとしていた人がエキシマレーザーを知らない人で,炭酸ガスレーザーなど大出力レーザーにかかわっていたので,強力な1パルスで壊れるとか壊れないとかという議論になりがちでした。一方,われわれは「何百万パルスで壊れる,壊れない」という議論が必要なので,全然規格の決め方が違うんですよね。多パルスの規格を1パルスの延長で決めようとしていて,10パルス打ったら壊れたとか,100パルス打ったら壊れたとか,「こんなふうにやっていたら,何百万パルスなど絶対できない!」と思ったものです。そこで,われわれは何百万パルスという世界で壊れるか壊れないかという規格を作りました。これがのちの国際規格になっています。
聞き手:規格のお仕事は,どこかで終了されたのでしょうか?
市原:それが,終われなかったんですよ。タイミングを失してしまって。現在のニコンの会長,前の社長ですが,彼がずっと光学ガラス関係の規格を担当してきたのです。その会長から光学ガラスの規格まで引き継ぎまして……。
聞き手:それはまた大変な。規格の世界では,なかなか日本から発信することは難しいと聞いていますが,そこら辺はいかがなのでしょうか?
市原:とにかくドイツなどのヨーロッパ勢が牛耳っています。TC172には活動しているSubcommitteeが7つあるのですが,4つはドイツが担当して,日本はゼロでしたね。当時,SC3という光学材料の規格の幹事国がフランスだったのですが,そのフランスがたまたま「辞めたい」と言い出して,「それじゃ,それを日本がやればよい」と靏田さんがおっしゃった。当時,靏田さんはTC172の国内の委員長だったのです。「TC172のためにもSC3の国際幹事を取るべきだ」と。それで,立候補して国際会議で承認されたのち,平成18年の7月から国際議長を引き継ぎました。と同時に,TC172の国内の委員長も靏田さんから引き継いだのです。
市原 裕(いちはら・ゆたか)
1973年,東京大学理学系研究科相関理化学専攻修了。同年,日本光学工業(株)(現 (株)ニコン)に入社し,研究所第二光学研究室に配属。研究室長である靏田匡夫氏の指導を受ける。1984年に精機事業部精機設計部第二開発設計課に異動し,半導体露光装置の開発や計測にかかわる。1988年,光学部開発課に所属。このころより,国際標準規格に携わる。2002年,コアテクノロジーセンター光学技術本部長兼光学技術開発部ゼネラルマネジャー。2003年,執行役員,コアテクノロジーセンター副センター長兼光学技術本部長。2005年,取締役兼執行役員。2006年,ISO/TC172/SC3国際議長。同年,研究開発本部長。2007年,常務執行役員。2008年,顧問兼市原研究室室長。現在に至る。