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「パーソナルブランドを磨こう!」シグマ光機(株) 代表取締役社長 森 昤二

実兄を頼って光学の道へ

聞き手:その後,起業されることになるとお聞きしましたが,セントラル硝子時代と大きく異なる専門分野に進まれた経緯や理由などをお聞かせ願えますか?

:実は,兄(森基(はじめ)氏)の存在が転職の一番の理由でした。兄は1971年4月に,埼玉県和光市で(株)日本量子光学研究所という名の会社を起業していました。「起業」と言えば格好良く聞こえますが,借用した汚い倉庫の片隅で光学機器の特注品を一人でほそぼそと設計製作していたような状況です。わたしは,1972年9月にセントラル硝子を退職し,汗と涙の結晶である150万円を握り締め,兄の会社に入りました。
 兄の前職は日本電子(株)の開発部門となる分光研究室の室長でしたが,レーザ技術の将来性やレーザ関連分野の伸長を確信して,一旗挙げる決心で起業した模様です。兄は日本電子で開発部門の長だった故宅間宏先生(電気通信大学名誉教授,2010年12月27日逝去)の薫陶を受けました。ずっと後の話になりますが,そんなご縁で2007年に開催したシグマ光機創立30周年記念パーティーでは,宅間先生に主賓のご挨拶をいただきました。その際に,シグマ光機の創始者の一人となる兄を「天才設計者」とお褒めいただき,さらに「日本電子時代の光学機器の設計製作では精度に関する妥協は一切無く,安心できる製品を作ってもらい,それがシグマ光機の精度の基礎になったはず」とのありがたい言葉をいただき,社員一同大変感激した覚えがあります。

聞き手:シグマ光機は森社長とお兄さまを含む3人の方が創業されたと聞きましたが,そのお三方の出会いと,シグマ光機創設に至った経緯をお教え願えますでしょうか?

:出会いの場所は,埼玉県和光市にあった(株)ナルミ商会に借りた倉庫の片隅でした。ナルミ商会は分光器を中心とした光学機器メーカーでした。当時のナルミ商会社長の村上氏は,兄が日本電子の分光研究室長時代に同室に頻繁に出入りされていた関係で知り合い,起業する際には部屋を貸してくれるとまで言ってくれた方です。東京大学の物理出身の優秀な方で,ナルミ商会自体は当時の分光器の標準品として多くの書籍や文献に社名が掲載されているほどの大変有名な会社でした。
 1971年にナルミ商会の倉庫で起業した兄は,そこでナルミ商会の社員であった杉山茂樹氏(のちのシグマ光機初代社長)と知り合いました。杉山氏は優れた機械加工技術と商売センスをお持ちで,一旗組の2人はすぐに意気投合したようです。わたしが杉山氏と知り合ったのは,翌年の1972年9月に初めてこの倉庫を訪れた時でした。兄と杉山氏は,毎日のようにいろいろと夢物語を話していましたが,新参者のわたしにはチンプンカンプンの内容でした。
 当時兄は,光学機器設計や特注品の生産で何とか食いつないでいましたが,兄は,わたしの飯のタネとして稼ぐ技能や技術を身に付ける必要から,将来,光学機器事業を立ち上げるために光学研磨をやってはどうかと言いました。会社を退職しただけで何の準備もなく,また,化学工学専攻でしたので知識や経験が全くないので,今から思えばゼロに等しい状態からの出発でした。
 4Bラップ盤の中古品を確保し,借りていた倉庫には水道,ガスが無かったために住んでいるアパートに資材一式を持ち込み,2カ月ほどの試作の後,平行平面基板製品が出来上がりました。しかし,製造過程で研磨ピッチを煮る時に猛烈な悪臭が発生するので,狭い路地にあるアパートでは近隣の住民に迷惑がかかってしまいます。そこで,住民が出勤後の午前10時ごろを待って煮始めたりしました。売り先は兄が懇意にしていたメーカーやブローカーの方々で,その数はほそぼその極致でたかが知れたものでした。
 資材調達や試作費,生活費で次第に持ち金が目減りする1972年末に,われわれにとってはとんでもない難問が発生しました。「工場を拡張するので,われわれが今借りている倉庫をつぶしたい。ひいては出て行ってくれ」とナルミ商会から言われたのです。1973年3月が期限とのことで,兄は「いずれやって来る問題」と以前より思っていたようですが,予想よりはるかに早い出来事にただ驚くばかりでした。
森 昤二(もり・りょうじ)

森 昤二(もり・りょうじ)

1968年に名古屋大学 大学院工学研究科修士課程を修了。同年,セントラル硝子(株)に入社。松阪工場のフロート板ガラス生産ラインに配属。1972年に同社を退職して,兄の森基氏が経営する(株)日本量子光学研究所に入社。1973年にモリトクを起業。1977年にシグマ光機を森基氏,杉山茂樹氏とともに設立し,取締役に就任。1989年に同社 専務取締役。1993年,同社の海外子会社である上海西格瑪光机有限公司の董事長総経理(2006年まで)。1999年,同じく海外子会社のオプトシグマコーポレーションのCEO(2003年まで)。2006年に同社 代表取締役社長に就任し,現在に至る。

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