「パーソナルブランドを磨こう!」シグマ光機(株) 代表取締役社長 森 昤二
埼玉県入間郡日高町の竹やぶで起業
聞き手:それは大変でした。その後,どちらの方に移られたのでしょうか?森:移転の期限まで3カ月しかありませんでしたが,わたしも兄も家族持ちでしたので,まずは住むところを探した結果,埼玉県入間郡日高町(現在は日高市)の高麗川(こまがわ)団地に格安の国の賃貸住宅があるということで,「ここへ引っ越そう」と言うことになりました。われわれが入居した時点での入居率は1割未満と大変低かったのですが,3Kの部屋の家賃は19,000円と安く,とても快適でした。JR川越線と八高線が交差する高麗川駅が徒歩20分の距離にあり,当時はまだ蒸気機関車が貨物の出し入れをやっているような緑豊かで牧歌的な所です。車の便は関越自動車道がいまだ川越IC止まりで,この川越ICから約25分の距離にありました。この地区は都内からギリギリ2時間圏のベッドタウンとして,ようやく開発が始まろうとしていた地域です。そんな所でも“住めば都”ですが,商売にはいささか不便な所でした。結局,この日高町が第2の故郷になり,今考えれば「ほどほど都会,ほどほど田舎」という良い立地だったと思っています。
聞き手:工場用地の確保はどうされましたか?
森:それが大問題でして,どこか近くに作業場となる貸工場を確保しなければなりませんでした。しかし農業と緑ばかりの土地柄で,そのような目的に向く貸工場は全くありません。毎日のごとく和光市から日高町に通い,地元の不動産屋巡りを続けて不動産屋とは懇意になりましたが成果がなく,弱りきっていました。そのような時に,たまたま相続問題で宙に浮いていた竹やぶの土地の話が出て,そこを借りられることになりました。裏には小畦(こあぜ)川という小川があり,水を多く使う光学研磨にはぴったりのところでした。しかし,さすがに竹やぶでは電力や水道,電話等のインフラが入らず,再び途方に暮れてしまいました。これは,地主の知り合いの不動産屋さんが知恵の限りを尽くしてくれて解決でき,細々(ほそぼそ)ながらもようやくスタートを切ることができました。
兄には稼ぐための仕事をしてもらい,わたしは毎日,竹やぶ切りと整地に汗を流し,また,建設業者や水道屋等に掛け合い,2間×4間の広さの安価なプレハブ小屋が3月に完成しました。われわれはこれを長らく「竹やぶバンブーハウス」と呼んでいました。日高町上鹿山(かみかやま)という所でしたが,結局ここで1982年5月までの約10年間,雌伏の時を過ごしたことになります。日高町に移動後,わたしは兄から独立して個人会社の「モリトク」(森特殊研磨を略した社名)を作り,1973年4月にスタートさせました。
森 昤二(もり・りょうじ)
1968年に名古屋大学 大学院工学研究科修士課程を修了。同年,セントラル硝子(株)に入社。松阪工場のフロート板ガラス生産ラインに配属。1972年に同社を退職して,兄の森基氏が経営する(株)日本量子光学研究所に入社。1973年にモリトクを起業。1977年にシグマ光機を森基氏,杉山茂樹氏とともに設立し,取締役に就任。1989年に同社 専務取締役。1993年,同社の海外子会社である上海西格瑪光机有限公司の董事長総経理(2006年まで)。1999年,同じく海外子会社のオプトシグマコーポレーションのCEO(2003年まで)。2006年に同社 代表取締役社長に就任し,現在に至る。