「パーソナルブランドを磨こう!」シグマ光機(株) 代表取締役社長 森 昤二
シグマ光機創設から「精度競争の時代」へ
聞き手:いよいよ3社が合体してシグマ光機ができるのですね。森:1977年4月に埼玉県入間郡日高町田波目(たばめ)に本社を置き,資本金200万円でシグマ光機株式会社を設立しました。社名は,「3人の力を合わせ(総和:シグマ),光学機器をやろう」という願いを込めてわたしが命名しました。わたしが光学研磨,兄が光学・機械設計,杉山氏が機械加工をそれぞれ担当し,光学装置を作る基本3要素が出来上がりました。場所はそれまでと同じ上鹿山の竹やぶで光学研磨と設計を,田波目で機械加工をやりましたが,営業と生産を一体化して3人の協力関係が密になることで無駄が減り,以前より効率のよい運営ができるようになりました。
聞き手:メーカーとしての体裁が整ってきたということでしょうか?
森:いいえ,それでもまだ企業の体(てい)は全くなしておらず,特注品や機械加工,光学研磨加工などの賃仕事で奮闘していました。関東近辺の大学や国公立研究所を走り回って,いただける要望を何でも形にして納品する便利屋でしたが,それでも光関連の予算は次第に増え,信用も増していくことをひしひしと感じていました。兄が日本電子時代に応用物理学会の分科会である光学懇話会の常任幹事をしていたために多くの光関連の方とつながりがあり,また,わたしは,大学の卒業名簿をたどって先輩や後輩を訪問することによって営業に役立てました。人脈が大切と痛感した時期です。
聞き手:その後のシグマ光機の進展について順を追ってお聞かせ願えますか?
森:1977年から1986年までの最初の10年は,「精度競争の時代」と位置付けています。
会社設立前から理化学研究所へは頻繁に出入りしており,この仕事を通じてカタログ通販の元となるミラーホルダーが完成しました。当時,ドルの為替相場が300円台だったので,輸入品は高精度ですが国産品の約4倍の値段となっていました。「輸入品と同じ精度で安く」という要望を受けて設計と加工に工夫を凝らし,1977年秋の応用物理学会の展示会に初めて出品したところ,問い合わせが次第に増えていきました。光学基本機器や光学素子ともに少しずつ種類は増えましたが,いまだカタログ化には至らない段階でした。それでも注文は増え,手ごたえは感じていました。
“月月火水木金金”の努力の末,1982年5月に,竹やぶにあった光学研磨・設計工場と機械工場が一緒になり,日高町原宿への工場移転が実現しました。日本が急速に経済発展する中でわれわれの光R&Dマーケットも急速に伸び始め,さらに米国へのOEM品の輸出も急増して大忙しとなり,2年ごとに工場の増設を行って3号棟まで拡張しました。
聞き手:カタログ通販が次の飛躍のポイントになったとうかがいましたが,それはいつごろのお話なのですか?
森:応用物理学会の展示会への初出品で手応えをつかみ,1984年に総合カタログの初版を発行しました。光学基本機器と光学素子のみで種類も少なかったのですが,仕様と価格を表示したのが「便利で画期的」と評価を受けました。これに加えて納期まで表示するようになったのは,それから8年後のことです。その当時は,通販分野において通信・物流革命が起きつつある時代でした。要因は2つあり,それはファクスと宅配便システムの普及でした。それまでは,図面も物品も郵便で発送していました。このように,輸入品の精度に負けず,国産における最高精度とリーズナブルな価格を目指して設計・加工に努力した時代でしたので,わたしはこの時代をシグマ光機の「精度競争の時代」と言っています。
なお,総合カタログも掲載品目の増加に合わせて改訂に改訂を重ね,この度「第10版」を発行することとなりました。ページ数も800ページを超え,掲載品番も1万点余を数える,国内で最大級のカタログとなり,当社と顧客をつなぐ重要なツールになっています。
森 昤二(もり・りょうじ)
1968年に名古屋大学 大学院工学研究科修士課程を修了。同年,セントラル硝子(株)に入社。松阪工場のフロート板ガラス生産ラインに配属。1972年に同社を退職して,兄の森基氏が経営する(株)日本量子光学研究所に入社。1973年にモリトクを起業。1977年にシグマ光機を森基氏,杉山茂樹氏とともに設立し,取締役に就任。1989年に同社 専務取締役。1993年,同社の海外子会社である上海西格瑪光机有限公司の董事長総経理(2006年まで)。1999年,同じく海外子会社のオプトシグマコーポレーションのCEO(2003年まで)。2006年に同社 代表取締役社長に就任し,現在に至る。