「パーソナルブランドを磨こう!」シグマ光機(株) 代表取締役社長 森 昤二
「納期競争の時代」から「全球競争の時代」へ
聞き手:日本の経済発展とともに会社の業績も伸びた時期ですね。大変お忙しい時期でもあったと思います。森:はい,その通りです。光産業の中核技術はレーザ応用技術でしたが,このR&D分野に急速に国家および民間予算が投入され始め,需要は目に見えて増えていきました。工場増設のために日高町内の用地を探しましたが,農業振興地域ということでなかなか見つかりません。また,急速な経済発展の中での人材確保も,“地方の小企業”,“農業中心の町”という環境では大変なものがありました。そこで,日高町の工場に加えて,1989年に石川県羽咋(はくい)郡志賀町の能登中核工業団地に新たに能登工場を作りました。
選定の際に多くの地方自治体より工場誘致のお誘いを受けましたが,結局,石川県庁の猛烈なアタックを受け入れ,同県に進出することになりました。縁もゆかりもない土地でしたが,Uターン就職を目指す優秀な若い人をたくさん確保でき,順調にスタートすることができました。能登工場では光学基本機器の量産一貫工場を実現して,これが急拡大するマーケットでの納期競争に間に合い,また,その5年ほど前から始まっていたOEM品の米国輸出の拡大にも対応でき,増産に増産を重ねるようになりました。一方日高町では,光学素子の需要が急拡大するタイミングに合わせるかのように,埼玉県先端産業条例による農地や林地使用の制限緩和が始まり,翌年の1990年に入間郡日高町下高萩新田(現日高市下高萩新田)に本格的な工場(現在の本社・日高工場)を作ることができました。
さらに,1993年には光学素子製造のコストダウンを目的として中国・上海市に上海西格瑪光机有限公司を,また,欧米の販売拠点として1995年には米国・カリフォルニア州にオプトシグマコーポレーションを作りました。同年,再度,石川県庁の企業誘致に乗って石川県松任市(現白山市)に技術センターを作り,自動応用製品の生産にも注力しました。 この時期は,製品精度に加え,顧客の納期に応えることが重要でしたので,わたしは1987年から1996年の10年間を「納期競争の時代」と言っています。相次ぐ工場増設や運転資金および在庫資金など業務拡大のために多くの資金が必要となったので,株式公開企業の道を選ぶ決心をしました。1996年に日本証券業協会店頭登録(現ジャスダック)銘柄となり,株式公開企業となりました。
聞き手:第3期目となる1997年以降はどういった時代になったのでしょうか?
森:今度は精度と納期の競争に加えて価格競争の時代に入りましたので,わたしはこの時期を「価格競争の時代」と呼んでいます。参入する企業も増えてマーケットは次第に熟成し,激しい競争が始まりました。一方,株式公開企業となってからは相当の資金需要にも耐えられるようになり,知名度向上とともに次第に優秀な人材も増えていきました。
2002年6月に東京都墨田区に東京本社ビルを購入し,営業本部と管理本部を移転しました。カタログ通販は日高町においてファクスと宅配便を活用した全国の販売チャンネルがほぼ完成していましたが,R&D分野だけでは業績の伸長スピードは遅く,産業分野に注力する必要が生じました。日高という土地では,産業分野の顧客アプローチのためには地の利がなく,また,提案力も弱くなってしまうため,顧客に近い所へ移転するという理由がその背景にありました。さらに,カタログを充実させるとともに,カタログ製品や産業用OEM製品の高度化のための増員と,上海西格瑪光机やオプトシグマへの投資も増強しました。
聞き手:現在,マーケット自体のグローバル化はどのような状況なのでしょうか?
森:米国系の競合企業による日本,アジアのマーケットへの進出が盛んになっています。欧米のマーケットが飽和し,最後のマーケットであるアジアを目指して各社が力を入れてくるのは当然のことです。わたしはこの時期を「全球競争の時代」と見ています。「全球」とは中国語で「グローバル」という意味です。精度や納期,価格の競争は全球競争へと広がり,製品とサービスの全方位で一層の高度化が必要となってきました。光学装置に必要な部品やユニットが生産できる総合メーカーとしての特長を最大限に生かすべく,シグマ光機は「光ソリューション・カンパニー」を標ぼうして,価格競争に巻き込まれやすい部品の単品売りから,総合力を生かしたソリューションビジネスへと注力し始めました。
また2年ほど前から,世界市場におけるシグマ光機グループの知名度を上げるために,米国・サンフランシスコでの「SPIE Photonics West (Exhibition)」では大きなブースを確保し,オプトシグマの営業を中心に20名ほどのグループ員を投入して認知度アップを図っています。米国における認知度は,そのままアジアにおける認知度に通じます。アジアから多くの留学生や研究生が米国に渡航しているからです。
森 昤二(もり・りょうじ)
1968年に名古屋大学 大学院工学研究科修士課程を修了。同年,セントラル硝子(株)に入社。松阪工場のフロート板ガラス生産ラインに配属。1972年に同社を退職して,兄の森基氏が経営する(株)日本量子光学研究所に入社。1973年にモリトクを起業。1977年にシグマ光機を森基氏,杉山茂樹氏とともに設立し,取締役に就任。1989年に同社 専務取締役。1993年,同社の海外子会社である上海西格瑪光机有限公司の董事長総経理(2006年まで)。1999年,同じく海外子会社のオプトシグマコーポレーションのCEO(2003年まで)。2006年に同社 代表取締役社長に就任し,現在に至る。