何か新しいものを作っておくと,誰かが面白い応用を考えるものです東京工業大学 学長 伊賀 健一
1989年の世界情勢が面発光レーザーの研究を加速
伊賀:1988年にわれわれは面発光レーザーの室温連続動作に成功するのですが,その直前の7月に,Jack L. Jewellが東工大を訪ねてきたことがあります。私がベル研究所にいたとき隣の部署で光コンピューターの研究が行われており,彼は面発光レーザーの研究をしていました。その彼が今年も156km富士ウルトラトレイルマラソンンに出場するため来日し,その帰りしなに東工大を訪ねてくれました。彼は1988年に富士山に登って撮ったご来光の写真を「面発光レーザーはこれだ」と言って,学会などで発表するなど面白い人ですが,われわれの1年遅れの1989年に,彼らも室温連続動作に成功したのです。この1989年はベルリン壁が壊れ,東西関係が氷解した年です。ソビエトがなくなって冷戦が終結したことで,米国は,ミサイルを打ち落とすためのエックス線レーザーの研究などが不要となり,防衛予算を産業用に転換し始めました。その1つがシリコンバレーです。日本ではコンピューター開発の国家プロジェクトが成功していましたから,米国はそれを見て,シリコンバレーをつくったわけです。そしてもう1つは,いろいろな光エレクトロニクスに投資を始めました。DARPA(Defense Advanced Research Projects Agency,米国防総省高等研究計画局)がレーザー・レーダーのようなアレイ技術を重要視し,これにあたる面発光レーザーに着目して光エレクトロニクスのセンターをつくろうと,1990年から応募を始めました。カリフォルニア大学のサンタバーバラ校やマサチューセッツ工科大学,イリノイ大学など複数の大学がグループをつくって,ワシントンのDARPAに申請しました。どのチームも計画が非常に面白いというので3つとも採択され,日本で言うところのCOE(center of excellence,中核的研究拠点)をつくったのです。UCサンタバーバラ校は,ベル研究所から多くの仲間が行っていましたので,非常に強力なチームでした。一方,欧州ではEC(現EU)が連携を取って,ベンチャーの立ち上げを計画し,新しい分野の研究を始めるようになりました。「ベルリンの壁崩壊」以降,大きなお金が出るようになり,面発光レーザーの研究が加速したのです。私も毎年夏にはサンタバーバラに行き講義を行ったり,欧州の大学を回って「面発光レーザーは面白いよ」と行脚の旅をしたわけです。ですから,1990年代から10年ほど『Applied Physics Letters』の各号のトップ論文に「面発光レーザー」が続いたほどです。多くの研究者が参入し,どれだけしきい値の小さなレーザーができるかなどの競争がものすごく盛んになりました。聞き手:ベルリンの壁が崩壊していなかったら,面発光レーザーがこれほど発展しなかったかもしれませんね。
伊賀:急激には発展していないかもしれません。もっとゆっくり来ていたと思います。 <次ページへ続く>
伊賀 健一(いが・けんいち)
1940年広島県出身。1963年東京工業大学理工学部電気工学課程卒業。1965年同大学院修士課程修了。1968年同博士課程を修了し工学博士に,同年精密工学研究所勤務。1973年同助教授に就任,同年米ベル研究所の客員研究員兼務(1980年9月まで)。1984年同大学の教授に就任。1995年同大学精密工学研究所の所長併任(1998年3月まで)。2000年同大学附属図書館長併任(2001年3月まで),同大学精密工学研究所附属マイクロシステム研究センター長併任(2001年3月まで)。2001年3月定年退職,同大学名誉教授。2001年4月日本学術振興会理事(2007年9月まで),工学院大学客員教授(2007年9月まで)。2007年10月東京工業大学学長就任,2012年9月末退任。●専門等:光エレクトロニクス。面発光レーザー,平板マイクロレンズを提案。高速光ファイバー通信網などインターネットの基礎技術,コンピューターマウス,レーザープリンターのレーザー光源などに展開される光エレクトロニクスの基礎を築く。応用物理学会・微小光学研究グループ代表。日本学術会議第19,20期会員,21期連携会員。町田フィルハーモニー交響楽団のコントラバス奏者,町田フィル・バロック合奏団の主宰者でもある。
●1998年朝日賞,2001年紫綬褒章,2002年ランク賞,2003年IEEEダニエル E. ノーブル賞,2003年藤原賞,2007年 C&C賞,2009年NHK放送文化賞ほか表彰・受賞。