研究の醍醐味は未踏の荒野を探し当てること東京大学 工学系研究科 物理工学専攻 教授 香取 秀俊
光格子時計をインフラに有用なアプリを創出
聞き手:現時点では,光格子時計の実用化のビジョンとして資源探査,地震予知などへの応用を想定されています。香取:現在,取り組んでいるのは“時空のゆがみを見る時計”です。現在の光格子時計は実験室全体を使って実験する大がかりな装置ですが,その小型化を図りたい。資源探査,地下探査などを想定すると,少なくとも自動車の荷台に積載できるサイズにしたいと考えています。時計自体のサイズは60~×60~×60~程度と小型ですが,それに付随するレーザーがその10倍くらいの大きさです。とはいえ,レーザーはすべて半導体レーザーを採用しているため,おそらくエンジニアリングの努力次第で縮小していくことは可能と思っています。
実際には,測地応用の領域までつなげていきたいと考えています。例えば,参照用の光格子時計をある場所に固定しておき,もう1つを自動車に積んで動かすとしましょう。そうするとこの車載の時計は(参照時計に対して)相対論的なセンサーです。車が速度を上げれば時間が遅れ,山に登れば時間が進み,密度の大きな地下資源の上を通れば時間が遅れ,地下に地殻変動で空洞が形成されていれば時間が進む,…という具合です。そのように考えると,GPSを使った従来のカーナビゲーションシステムが,光格子時計を自動車に搭載することで,時空のゆがみが見える相対論的なカーナビゲーションシステムへと進化するって冗談を言っています。
一般講演ではよく話をしますが,画家のSalvador Dali が物理学者のAlbert Einsteinの相対性理論(相対論)に触発され,絵画作品「記憶の固執(柔らかい時計)」の中で,ぐにゃっと曲がっている時計を描いているのです。この絵画の本当に驚くべき点は,Einsteinによる相対論の発表から約25年後の1931年に,Daliは時空が曲がった様子を頭の中でイメージし,キャンバス上に砂漠を背景にして枯れ木にぐにゃっと曲がった時計がぶら下がっている情景を描いているところです。Daliは,“時空のゆがみ”を認識していたからこそ,曲がっている時計を描き出すことができたわけですが,私も1世紀遅れでようやくその境地に達しました。今後は光格子時計を使えば,この絵の進化バージョンとして“枯れ木に引っ掛かっている時計の時間が進んでしまっている状態”を実際に見ることができるでしょう。
われわれの認識が大きく変わる点は,宇宙スケールの現象や巨大な加速器など生活とかけ離れた世界で問題になると思っている相対論の世界が,1~10cm程度のパーソナルスケールで見えてくることです。足のつま先と頭てっぺんで時間の進み具合を見比べることができ,頭頂部では16桁目で時間が早く進んでいることが確認できたりするわけです。時空間が重力でゆがんでいるっていうことがパーソナルスケールで見えてきます。これは,計測において何かに役立つ可能性はあるでしょう。例えば,地下に高密度の資源が埋まっていれば,その場所は重力が強く時計の針がゆっくり進み,資源探索のセンサーになります。福島原発事故後,一般市民がガイガー・カウンター使って放射線量を測定するようになり,東京・世田谷区の住宅の敷地内から高い放射線量が検出される出来事がありました。このように,測定機器が広く普及し自由に使用できる状況になると,思いもかけない発見をする可能性も高まるでしょう。そうした発想で追究していけば,今後は光格子時計の有効なアプリケーションが創出できると考えています。このように考えると,前述した光格子時計の研究・開発の“ゴール”のハードルはどんどん上がっていきます(笑)。
そもそも光格子時計を提案した2001年ころは,「そんなアイデアでうまくいくの?」という否定的な見方が大半であったこともあり,当初は「光格子時計が動作する」ことが私にとってゴールの1つでした。ところが,2005年にそれを実現すると,「光格子時計が18桁の時間計測を可能にすること」が次の現実的なターゲットになりました。この当時,新聞記者にいつごろできますかと聞かれて,10年くらいかなと言っていました。10年っていう数字は,今は目途が立たないという婉曲表現でしたが,今ではもう2-3年できそうな気がしています。
“時空のゆがみ”の探索については,東大と理化学研究所(理研)で開発する18桁の光格子時計を,設置し2地点を光ファイバーでつなぎ,計測時間が比較できるように準備を進めています。18桁の時間比較では,東大の時計の高さと理研の時計の高さを1cm単位まで測定することができます。逆に,15kmも離れた時計の高さを1cmの精度で,従来手法で測量する方が大変です。例えば,東大付近の水準点から東大の地下の実験室まで三角測量をしていかないといけないでしょう。そんなことをするよりは,時計の進む速さの差を見る方が簡単そうです。こうして光格子時計は“高さを決めるツール”に進化します。これまでの時計は皆で同じ時間を共有するためのツールでしたが,光格子時計はこんな用途を想定すると “時空計”となるわけです。
こうしたデモンストレーションを,ここ1年の間で発表したいと考えています。ホームページで東大と理研に設置した時計の周波数差をリアルタイムで表示できたらいいなと思っています。アクセスしてくれた人に,この時空計の応用のインスピレーションをもってもらえたらいいと思います。2台の時計の周波数差が一定であれば,相対的な高さに変化はなく,ある時期を境に周波数が徐々に変化すれば,どちらかの時計が設置されている地下で何か異変が起きていることを示唆するでしょう。このように2地点を結ぶ時計のネットワークを実証することが最初のステップで,次の段階として光格子時計が一般に広まり,例えば10~おきに光格子時計が設置される状況になれば,それを光ファイバーで結ぶことで,その地域の地下の重力分布状況をリアルタイムに表示する観測網になるでしょう。ひょっとすると地震の予知に役立つかもしれません。
また,多くの人が正確な時間を共有する必要性を感じ,光格子時計が実用化され利用が広まれば,そのバイプロダクトとして当初予想し得ないさまざまなアプリケーションが創出されていくでしょう。正確な時間は現代の高度情報化社会のファンダメンタルなインフラであり,今後,ますます正確な時計は重宝されることでしょう。今でさえ,毎朝お世話になる1000円で買える電波時計のアラームは原子時計精度です。人々は高精度化にはすぐ慣れっこになってしまうのです。その時計の精度をさらに高めておけば,おそらく後世の人たちが幾らでもアプリケーションを創出するようになるだろうと期待しています。つまり,新たなアプリケーションが光格子時計というインフラを基にどんどん創出されていくイメージです。私の研究室の学生には,光格子時計をインフラとしたアプリケーションを開発するベンチャー企業を立ち上げるように今けしかけているところです。「今しかない!」と(笑)。 <次ページへ続く>
香取 秀俊(かとり・ひでとし)
1964年東京都生まれ。1988年東京大学工学部物理工学科卒業。1991年東京大学工学部教務職員のち同助手,1994年東京大学大学院・論文博士(工学),独マックス・プランク量子光学研究所 客員研究員。1999年東京大学工学部 総合試験所助教授。2010年東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻教授,科学技術振興機構・戦略的創造研究推進事業・ERATO香取創造時空プロジェクト研究総括。2011年理化学研究所 香取量子計測研究室 主任研究員(兼務)●研究分野:量子エレクトロニクス
●2005年European Time and Frequency Award,2006年日本IBM科学賞,2008年Rabi Award,2010年市村学術賞特別賞,2011年ジーボルト賞,2012年朝日賞,2013年東レ科学技術賞ほか。