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「これなら,俺は,やりたい」と思えるようなものをつかまえさせるのが教師の役目小柴 昌俊

自分で書いた推薦文でロチェスターへ留学

聞き手:そんな学生時代から,素粒子を含めた研究をすることになった経緯を教えてください。

小柴:私の高等学校の2年先輩で,物理の先輩でもある藤本陽一という,現在は早稲田の名誉教授になっている人がいます。彼が「小柴君。今度,イギリスのブリストル大学で発明された原子核乾板というのが日本へ輸入されて使えるようになった。これだと今までは写らなかった電子なんかも写るよ。ひとつ,これで素粒子を眺めてみませんか」と言ってくださいました。  「それではやってみよう」と,富士山のてっぺんにその乾板を上げて,宇宙線がたくさん当たるように1カ月間そこに置いておいたのを持ち帰り,現像して,定着して,水洗いして,乾かして,顕微鏡でのぞいてみたら,湯川先生の話に聞いていたパイ中間子がそこに見えたのです。それが止まってミュー粒子を放出して,ミュー粒子が走っていったり,だんだん遅くなって止まって,止まった所から電子が飛び出したりするのが見えて,「あ,これなら俺にも付き合えるな(笑)」と思いました。その時から,原子核乾板の仕事をするようになったのです。それでのぞき始めたんですけれども,先輩の藤本さんと「イギリスからもらった乾板で,2人でのぞいていたって,どうせ『井の中のカワズ』で終わってしまうだろう。やっぱり,われわれは本場へ行って修行してこなければ,どうしようもないだろうね。」と話し合いました。藤本さんはその時,もう助手で,学位も取っていましたから,本家本元のイギリスのブリストル大学にリサーチアソシエートとして出掛けていきました。ところが,私はまだ大学院に入って2年目で,学位もないから,ブリストル大学に行くなんていうことはできませんでした。
 そのころ,世界中で原子核乾板を使った研究で本家本元のブリストル大学に次いで世界2位の実績を挙げていたのが,アメリカのロチェスター大学でした。だから,私は行くとしたらロチェスター大学へ行きたいなと思いました。けれども,つてが何もないわけです。
 それが運のいいことに,ノーベル賞をもらった湯川先生が,アメリカ物理学会がニューヨークであった時にコロンビア大学に行っていて,昼飯をロチェスター大学の理論物理教室主任と一緒に食べて,「ロチェスター大学はアメリカでは物理で一流校と認められていない。アメリカのいい学生はみんなハーバードとかMITへ行ってしまうから,ロチェスター大学としては,仕方がないから,毎年インドからできるやつを3人ぐらい選んで,奨学金を出して勉強させて学位を取らせている。もし日本から「これは」と思う学生がいるんだったら同じように引き受けるけれども,どうだ?」という話があったのだそうです。
 それが日本へ伝えられたのですが,先ほど話したように,私の卒業成績なんてみじめなものでしょう。だから,日本から3人を選ぶといっても,普通だったら選ばれるはずもないのですが,なぜ私は運が良かったか。
 実は個人的な事情から,それよりずっと前から朝永振一郎先生と仲よくなっていたのです。私が行った高等学校は全寮生活で,私は全寮の副委員長をやったりしていて,その時の校長先生と,学生のことで何かと話し合っていたんです。私が卒業する3月に,その校長先生に校庭で会ったら,「小柴君,何学科へ行くことになりましたか」と聞いてくださって,「私は物理へ行くことになったんです」と言ったら,「ああ,そうですか。私は物理のことは何も分からないけれども,私が京都大学で師事した朝永三十郎先生の息子さんが物理をやっていて,私は頼まれてその人の結婚の仲人をした。その人が今,東京で物理を教えているから,紹介しましょう」と言って,紹介状を書いてくださいました。  当時の私は,朝永先生がどのくらい偉い先生かも全然知りませんでしたが,せっかく紹介状をもらったから会いに行きました。朝永先生は空襲で家を焼かれて,他の戦災者と一緒に陸軍の防空壕の中で暮らしているという状況でした。それでも,会って話していると,10分もたたないうちに,僕は朝永先生が大好きになっていました。朝永先生も私を気に入ってくれたらしく,それからは,何かというとすぐ連絡を取って,お互いに飲んでくだらないことをおしゃべりしていたのですが,それが楽しかったんです。
 それで,朝永先生に,「先生,俺は今,原子核乾板を始めていて,やっぱり本場へ行ってしごかれなければ本物になれないと思う。藤本さんはブリストルへ行けたけれども,私はそういうつてがない。ロチェスターは世界で2番目だ。この際,私は行きたいんだ。先生,私を推薦してください」と言いました。すると,「あなたはアメリカへ行ってもすぐ英語で困るに決まっているから,自分で英語で推薦文を書いてみて」と言われ,私はひどい英語で「成績は良くないけれども,それほどばかではない」と何とか書いて先生に見せたら,先生は,にやっと笑ってサインしてくださいました。そういうわけで,日本から選ばれた3人の中に入れて,ロチェスターへ行ったんです。
聞き手:その後,小柴先生がロチェスターで学位を取るのが,最速の記録になったというお話も伺っています。

小柴:うん。なんか今でも短い記録になっているらしいですね。別に,確かめていないけれどね。こちらには金が欲しいという事情がありましたからね(笑)。ロチェスターでは,奨学金が月に120ドルあるけれども,税金で10パーセントを天引きされて,天引きされたぶんは年末に返ってくるけれども,苦しいわけです。そんな時に,アメリカでは,物理で学位を取ったら月に400ドルは確実にもらえるという話を聞いて,それはもう一刻も早く学位を取らなければと思って,大急ぎで学位を取ったわけです。 <次ページへ続く>
小柴 昌俊(こしば・まさとし)

小柴 昌俊(こしば・まさとし)

1926年 愛知県生まれ 1951年 東京大学理学部物理学科卒業 1955年 ロチェスター大学大学院修了(Doctor of Philosophy) 1958年 東京大学助教授(原子核研究所) 1963年 東京大学助教授(理学部) 1967年 東京大学理学博士取得 1970年 東京大学教授(理学部) 1974年 東京大学理学部附属 高エネルギー物理学実験施設長 1977年 東京大学理学部附属 素粒子物理国際協力施設長 1984年 東京大学理学部附属 素粒子物理国際研究センター長 1987年 東京大学名誉教授 1987年8月?1997年3月 東海大学理学部教授 1994年 東京大学素粒子物理国際研究センター参与 2002年 日本学士院会員 2003年 財団法人平成基礎科学財団設立 理事長就任 2005年 東京大学特別栄誉教授 2011年 公益財団法人平成基礎科学財団へ移行 理事長就任
●研究分野 素粒子物理学
●主な活動・受賞歴等
1985年 ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章 1987年 仁科記念賞 1988年 朝日賞 1988年 文化功労者 1989年 日本学士院賞 1997年 藤原賞 1997年 文化勲章 2000年 Wolf賞 2002年 ノーベル物理学賞 2003年 ベンジャミンフランクリンメダル 2003年 勲一等旭日大綬章 2007年 Erice賞

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