いかに自分を納得させ進めるかが重要 自分が納得できないものには人はついてこない藤原 義久
精密工学科に進み,高速度カメラの研究に携わる
聞き手:大学での研究内容からニコンでエンコーダーを研究するにいたる経緯についてお教えください。藤原:私は山梨県出身で,山梨の普通科の高校から山梨大学工学部精密工学科に進みました。父親が機械が好きだったことから感化され,子どもの頃から時計などを分解したり,中学生の時にはラジオを組み立てたりしていましたので,そのまま精密工学科を選びました。
研究室では,吉澤先生がやっておられた高速度カメラの研究に携わりました。通常のカメラでは1秒間にせいぜい数コマしか撮れないものを,高速度カメラは,文字通り何万コマと高速撮影ができます。後から知ったのですが,当時ニコンと東京大学の研究室との共同開発で,1秒間に百万コマの撮影が可能な高速度カメラを開発していました。高速度カメラは巨大な装置になっていて,周りにフィルムが張り付けてあり,回転させ,なかに光を取り入れて感度を高める処理をして,物事の現象をとらえる仕組みです。わかりやすい例では,ミルクを落としたときのクラウン現象や,ガラスに弾丸を打ち込んだときのガラスが割れる瞬間をとらえるようなときに使われます。吉澤研究室では,そこまで高速でなくても,もう少し安く簡単なものができないかと,それを卒業研究にしました。
大学では写真部に入っていました。そのとき,バイトして買ったのがニコンのカメラだった縁もあり,1970年にニコン(旧:日本光学工業株式会社)に入社しました。専攻がメカ系ですから,最初に配属されたのは機器事業部でした。天体望遠鏡や原子力機器,その他理化学機器の受注品を作る設計に携わりました。ニコンで一番大きな天体望遠鏡は木曽の天文台にある主鏡150 cm,口径105 cmのシュミット天体望遠鏡で,先輩設計者の設計を図面に書き起こすお手伝いから仕事を始めました。また,原子力関係では,原子力研究所の実験室の30~130 cmの厚みのある壁を通して,外から観測できる放射線ペリスコープの開発に携わりました。以前は壁の厚みに合わせ1台ごとに設計をしていましたが,壁の厚みに合わせ調整できる設計にしました。
それらがメインの仕事で,個人的には,他の人があまり関わらないような仕事ばかりやっていました。その中には,宇宙ロケットに載せてオーロラを撮影するレンズや,銀行の端末機でボタンの意味を教える投影機の開発もあります。銀行の端末機は,今は液晶やタッチパネルで何でも表示できますが,当時,液晶はありませんでした。銀行によって必要な項目が200パターンくらいあって,それをモーターで切り替えてスクリーン上に映して表示する,それがのちのエンコーダーの開発につながりました。メカの設計者は私1人で,光学設計1人,電気設計1人で任されました。電気メーカーが求める信頼性の考え方も,そのときに学びました。この装置はかなり売れました。
その後,ニコン労働組合で,専従で5年間,書記長を3年間やりました。もろもろ会社側との交渉事や,会社側の事務局との打ち合わせ,組合内の財政問題などに携わり,経理や年金のことも勉強しました。38歳になった1983年に現職に復帰し,半導体の検査装置の設計に戻りました。そして,1985年に課長になり,エンコーダーの設計技術のマネジャーとして,エンコーダーへの関わりが始まったのです。
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藤原 義久(ふじわら・よしひさ)
1970年 山梨大学工学部精密工学科卒業 1970年 日本光学工業株式会社(現:株式会社ニコン)機器事業部入社 1980年 ニコン労働組合 専従 書記長 1985年 同光機事業部エンコーダグループ マネジャー 1997年 仙台ニコン取締役 2004年 ニコンロジスティクス取締役社長 2006年 ニコンビジョン取締役社長 2010年 退職●主な活動・受賞歴等
産業技術総合研究所・角度トレーサビリティー委員会
産業技術総合研究所・長さトレーサビリティー委員会