光学技術や精密工学技術のいろいろな領域で 世界のトップレベルまで引き上げなければいけない という使命感みたいな気持ち(前編)元(株)ニコン 鶴田 匡夫
会社の外部諸研究機関への窓口として様々な役割を体験
聞き手:ここまで藤原さんのお名前が頻繁に出て来ましたが,その後の藤原さんについてお話し下さい。鶴田:私が兄事した藤原さんは,私が研究部に異動して2年足らずの1963年に会社を退職して当時の東京教育大学(後の筑波大学)光学研究所助教授に転出しました。当時まだ珍しかった教官公募に応募して採用されたのです。晴天の霹靂でした。しかし,当時の彼の関心が学位論文のテーマだったフレネル型アキシコーンの開発や混合薄膜の研究から徐々に回折格子の紫外域におけるWoodのanomalyを可視域の非常に巧妙な実験で実証するとか,真空蒸着の初期に発生する島構造のメカニズムを溶融石英の極細の糸で作ったマイクロバランスを使って証明するといった,応用よりも純粋で地味な実験物理学的なテーマに挑戦したいという方向に向かっていたことを知っていた私には止むを得ない選択だったのだろうと感じたことでした。
その後に私が辿った上述の企業技術者の道と,藤原さんが歩んだ時流に無頓着な研究者の道は大きく隔たりましたが,学会や大学をはじめとする諸研究機関への窓口になるという役割は,気がつくと私が引き継いでいました。前述した光学懇話会の文献抄論委員長や同会を改称した日本光学会の初代幹事長(1988~89)を引き受けたのもその一例です。その他にも,実験のノウハウを伴う研究用器材の受発注の下打ち合わせや,「差し支えなかったら教えて」といった情報交換,さらには指導教官の先生を介した学生の就職活動の窓口になるなど様々でした。「大学院の入試に失敗したので締切が過ぎたのは承知しているが面接を受けさせてやってくれ」とか,「オーケストラに入れ込んで成績はビリから数える方が早いが人物はしっかりしているからよろしく頼む」とか,「彼は最近失恋して落ち込んでいるので面接にまともに答えられないと心配なので君が直接会ってやってくれ」とか,人事部にどう伝えるか気が重くなるようなこともありました。
このような外部とのお付き合いの中で自慢話をひとつ。1974年か75年頃,初対面の松原一郎さんという,当時東大医学部助手だった方から,X線回折装置について相談を受けました。ロンドン大学キングズカレッジ生物物理研究所に留学中に使っていたのと全く同じ(図面のインチをmmに書き変えただけ)装置を帰国後日本で作って筋収縮の実験をやろうとしたが,ロンドンでは見えたものが全く見えない。原因は何だろうかというのです。光学系の主な要素は顕微鏡で試料を載せるのに使うスライドガラスに似たガラス板を長手の方向に僅かに曲げて作った斜入射反射鏡でした。このとき理想的な研磨面はX線に対して反射率が高く,このときの実効的表面粗さの平均2乗平方根(rms)は入射角をθ=90°-Δ(ラジアン)としたときΔに等しくなります。すれすれ入射の配置では波長が短いX線に対しても整反射する鏡として働くことができる訳です。しかし,回折パターンが見えないのは,これが単なる粗面になってしまったせいだろうと見当をつけ,東京天文台に納入したコロナグラフ対物レンズの再研磨に立ち会ったときのことを思い出し,スライドガラスの表面を「特別に細かい研磨剤を薄めて,さらにその上澄み液で気長に研磨してみよう。それを使って回折パターンが見えるようになったら実費を戴きましょう」と申し上げました。私の手許のデータでは粗さのrmsはふつうの40Åから1~2Åにまで小さくできる筈でした。テストは上々でX線回折パターンが見事に観察できて大変喜ばれたことでした。後で知ったのですが,松原さんは江橋節郎先生(分子生物学の世界的権威。東大医学部教授,同理学部物理学科教授兼任)門下の逸材として知られ,1990年50歳で肝癌のため死去した方でした。遺著に『劇場街の科学者たち』,朝日新聞社(1992)があります。
OplusE3・4月号「私の発言(後編)」につづく。
鶴田 匡夫(つるた・ただお)
1933年 群馬県北甘楽郡富岡町(現 富岡市)生れ 1956年 東京大学理学部物理学科卒 同年 日本光学工業 (現 ニコン)に入社 1967年 工学博士 1987年 取締役 1993年 常務取締役開発本部長 1997年 取締役副社長 2001年 退任●専門分野
応用光学
●主な受賞歴
1964年 第5回応用物理学会光学論文賞
2004年 第4回応用物理学会業績賞(教育業績)
2019年 第3回光工学功績賞(高野榮一賞)
●著書
『光の鉛筆』11冊シリーズ
『応用光学Ⅰ』(1990) 『応用光学Ⅱ』(1990)