OplusE 2022年9・10月号(第487号)
- 目次
- 特集のポイント
- 広告索引
特集
量子インターネットに向けて
- ■特集にあたって
- 慶応義塾大学 神成 文彦
- ■量子情報通信ネットワーク技術の展望
- 慶應義塾大学 武岡 正裕
- ■量子暗号技術の標準化動向
- 情報通信研究機構 釼吉 薫
- ■量子暗号ネットワークによるサービス事業の展開
- 東芝デジタルソリューションズ 佐藤 英昭
- ■量子インターネットの展望
- メルカリR4D 永山 翔太
- ■量子インターネット実現に向けた光量子技術
- 大阪大学 生田 力三
特別企画
- ■画像センシング展2022 特別招待講演(ロボット・感情センシング)
- オムロン 水山 遼
連載
- ■【一枚の写真】空間選択的にバンドギャップ構造を制御する
- 中国浙江大学 孙轲,谭德志,邱建荣
- ■【oe 玉手箱のけむり】その21 伝承と創造
- 伊賀 健一
- ■【私の発言】若いうちに成果を出すことばかりを考え,焦りすぎないこと,自分を見失わないこと
- 東京工業大学 宮本 智之
- ■【輿水先生の画像の話-魅力も宿題も-】第27回 画像AI 研究のシルバー的働き方イノベーション(上巻)-地方からの右往左往レポート- Some pieces of Innovation for Elderly People of Image AI Researches(first volume) – A Report from Regional Daily Confusing Challenges –
- YYCソリューション/中京大学 輿水 大和
- ■【撮像新時代CMOSデジタルイメージング】第9回 マシンビジョンの概要,異能の技術 そして進化
- 名雲技術士事務所 名雲 文男
- ■【レンズ光学の泉】第2章 点像 2.4.5 軸外照度と瞳形状 2.4.6 軸外の伝達関数と瞳座標
- 東京工芸大学 渋谷 眞人
- ■【研究室探訪】vol. 29 大阪大学 山本・生田研究室
- 大阪大学 山本・生田研究室
- ■【ホビーハウス】だまし絵が街の中に進出
- 鏡 惟史
- ■【コンピュータイメージフロンティア】『LAMB /ラム』『バッドガイズ』『1950 鋼の第7 中隊』ほか
- Dr.SPIDER
- ■【ホログラフィ・アートは世界をめぐる】第29回 パリとニューヨーク
- 石井 勢津子
コラム
■Event Calendar■掲示板
■O plus E News/「光学」予定目次
■New Products
■オフサイド
■次号予告
表紙写真説明
量子インターネットの概念図を示す。量子コンピューティング,量子センシング,量子暗号・セキュリティなどの様々な量子技術のデバイスを「量子的」に接続したネットワーク。従来の情報通信技術と同様,ネットワーク化により様々な新しい応用の道が拓ける。量子的な接続は,エンタングルメント(量子もつれ)を共有することによって実現される。リンク上を流れるのはエンタングルした光量子信号であり,その長距離伝送は量子中継技術によって実現される。(関連記事「量子情報通信ネットワーク技術の展望」慶應義塾大学 武岡 正裕/画像提供:逵本 吉朗:詳細は477ページ)
特集にあたって慶応義塾大学理工学部 神成 文彦
量子インターネットに向けて
読者の皆さんは,ネットショッピングでクレジットカードの番号を記入する際,現在のネットにおける秘匿通信の原理と安全性をどの程度理解して行っているだろうか。車でETCゲートを通過する際にも,他人の車の料金が間違って請求されたりしてこないかなど,もはや不安には感じておられないだろうが,その根拠は何だろうか。おそらく,みんなが使って大丈夫なのだから自分も大丈夫という大衆心理がそこにあると思われる。現在の社会は成熟した古典論的な(今回の特集は量子ネットワークなので,あえて対比させて「古典論的」と書く。古典論的とは古くさいということではなく,量子力学と対比したニュートン力学,電磁気学のような物理を古典論と分類する。)秘匿通信技術で情報のセキュリティが守られている。その原理はRSA暗号方式と呼ばれ,現在使われているのは617桁(2,048ビット)のRSA暗号である。暗号通信においては,公開鍵と呼ばれる個人が所有する秘匿性の必要がない鍵と,秘密鍵(共通鍵)と呼ばれる解明されては困る鍵の2種類が存在する。受信者BさんがAさんから暗号通信で情報を送ってもらいたいときに,Bさんは,任意の素数p,qと自然数eを選び,n=p×qの積とeをAさんに送る。このとき,e,nが今回の通信の公開鍵になり,第3者に取得されても構わない鍵となる。一方で,Bさんはp-1とq-1の最小公倍数φを用いてd=e-1modφを計算しておく。Aさんは公開鍵e,nを用いて送りたい平文xをy=xemodnに暗号化してBさんに送る。Bさんは,x=ydmodnの処理をして暗号文から平文を回復する。このとき,nを容易に素因数分解してdが求まれば暗号は破られてしまうが,617桁の素因数分解には現在の計算機ではとてつもない計算時間が必要であるために実質的にそれは不可能ということで秘匿性が担保されている。
パソコンとホームページやブログを発信しているサーバーがやりとりするインターネットでは,通信方式にHTTP(Hyper Text Transfer Protocol)とHTTPS(Hyper Text Transfer Protocol Secure)の2種類があり,後者がデータを暗号化した通信方法になる。HTTP通信の内容は盗み見ることが可能なのに対して,HTTPS通信ではWebページのデータ配信サーバーに,使用する暗号鍵との情報とサイトの運営者情報を記したSSL(Secret Socket Layer)サーバー証明書の両方をインストールすることで秘匿性を実現している。ステップとしては,まずブラウザからサーバーにSSL通信をリクエストすると,サーバーからSSL証明書が送付される。この証明書には秘密鍵で電子署名された公開鍵が含まれており,ブラウザ側は電子署名の検証によりSSL証明書に記載されたドメインと通信先のドメインが同じであることを確認する。次に,ブラウザとサーバー間でSSL通信を行うための秘密鍵を交換する。ブラウザ側でこの秘密鍵を使って暗号文を作成してサーバー側に送信し,サーバー側が秘密鍵で復号化してSSL通信が成立する。以上のように,われわれが信頼して使っている現状の暗号通信方式もけっこう難解である。決して,皆さんがその原理を理解して安心して使っているわけではないはずである。
さて,本特集のテーマである量子暗号通信技術であるが,この原理については1980年代に遡るわけで,O plus Eにおいても何度か解説記事を掲載している。秘密鍵をAさんとBさんとの間で交換する際の秘匿性を,光子の偏光直交基底を用いて説明するプロトコルは決して難解ではない。しかし,むしろ大事なのは,中身がわからない量子状態は絶対複製できないという原理であり,言い換えれば,量子状態は計測すると必ず変化するのでもとの状態には戻せないという点である。617桁の素因数分解もゲート型量子計算機が実現すると短時間で計算できてしまうので,現在の秘匿通信はもはや安全ではなく,量子力学の原理で保証された秘匿通信方式が必要になる。そこで,量子技術開発においては量子計算機と並んで量子暗号通信が研究され,今日現在,前者に先んじて暗号技術が商用化するまでに進んできた。
さて,われわれユーザーは古典的暗号通信においても盲目的に信用して使用しているのに,この量子暗号通信の原理を上述の説明以上に知っておくことがはたして必要であろうか? 本特集はそういう視点から,もはや読者の皆さんに原理や要素技術を詳しく説明する難解な記事を揃えるより,この量子暗号通信が実現したときに,どういうネットワーク社会が実現して何ができるようになるのか,その夢を共有したい。そういう着眼で,専門家の著者の方々には,要素技術やネットワークプロトコルの詳細にはなるべく触れずに,量子ネットワークを語っていただくようにお願いした。
一方,この量子暗号通信技術について世界の動向を見てみると,2021年英科学誌Natureに掲載された中国科学技術大学の論文において,上海市から北京市までの2,000 kmのネットワークをはじめとし中核都市内には網の目のような量子暗号通信網が張り巡らされていることが明らかにされた。さらに2016年には世界初の量子暗号通信衛星「墨子号」の打ち上げに成功し,この量子暗号通信衛星を介して南山区と興隆県を結ぶ2,600 kmの暗号ネットワークも稼働しているそうだ。この地上と衛星を含めた4,600 kmのネットワークで,新華社通信や銀行などが実用しているとされている。中国に次いで取り組みが活発なのが欧州で,European Quantum Communication Infrastructure(Euro QCI)が2019年にスタートし24か国が参加している。米国は,中国の脅威からか2021年に予算を倍増して研究を加速させている。
日本は,実は量子暗号通信の研究開発では先駆けた研究が行われてきており,2010年からは情報通信研究機構(NICT)が東京100 km圏内でTokyo QKD Networkというテストベッドを長期運用し,そこには東芝,NEC,三菱電機,NTTが参画している。本特集号にも寄稿いただいたように,国際標準取得を先導したのは日本のNICTである。東芝が2020年に事業化を開始したのはTVのCMなどでも知られている。技術的には,暗号の配信速度と伝送距離が重要で,東芝が事業化した装置は,鍵配信速度が300 kビット/秒,最大距離120 kmである。東芝は,量子暗号の世界市場は10年以内に爆発的に大きくなると予想している。今後の技術開発の中心は,秘匿性を維持した中継機能をもって距離を延ばす技術である。そこでは,ダイヤモンドの量子欠陥を利用した量子メモリー,量子テレポーテーションと呼ばれる転送技術が研究開発の中心となる。一方で,NECは既存の光ファイバーネットワークと共用できるContinuous Variable-Quantum Key Distribution(CV-QKD)方式の量子暗号通信装置開発に注力している。
さて,本特集の本題である,そういった量子力学に裏打ちされた完璧な暗号通信ネットワークが実現すると,現状でもいまだ十分に安全な古典論的暗号通信に代わるパラダイムシフト的な量子ネットワークがどのように展開できるのかという点が楽しみとなる。現在のインターネットのTCP/IPは,標準化から40年以上使用されていることを考えると,要素技術開発と並んで必要なのが量子ネットのアーキテクチャーであろう。量子版ブロックチェーン,量子暗号資産のような既存のネットワークからの飛躍的な高度化はもちろんのこと,量子計算機や巨大な(量子)センサー網をつないだデータ処理とそれに基づくメタバース構築など,堅固で信頼性の高いインフラ構築と並んで重要なのが新しい実用化モデルの先取り,すなわち,Quantum Transformation(QX)の世界をいち早く見通すことではないだろうか。
最後に,読者の皆さんには,以下のキーワードをウィキペディアでいいので調べて,少し理解しておくことをお勧めする。知らないからといってQXに乗り遅れるとは思ってはいないが,これから20年くらいの量子技術の躍動を覗いてワクワクする手助けにはなると思う。「重ね合わせ状態」,「量子ビット」,「波束の収縮」,「量子もつれあい(エンタングルメント)」,「量子メモリー」,そして「量子テレポーテーション」である。
参考文献
1)Yu-Ao Chen, et al.: “An integrated space-to-ground quantum communication network over 4,600 kilometres”, Nature, Vol. 589, pp. 214-219(2021)
2)“突発、量子ネット大戦”, 日経エレクトロニクス, 2021年6月号(2021)
OplusE 2022年9・10月号(第487号)掲載広告はこちら