第8回 キエフ・モスクワ・サンクトペテルブルグ
キエフでは忘れられない思い出がいくつもある。ここは地理的にもヨーロッパのとなりである。建物や道路,街路樹などヨーロッパの街を連想する美しい街並みであった。ところが,百貨店と称された18世紀風の美しい建物に1歩入ると中の様子は一変した。我々が想像する店舗とはまるで様子の異なった,荷を運び出した後の倉庫といった風情に驚いた。洋服売り場はがらんとした大きなフロアーにハンガー掛けが数台,そこにパラパラと数枚の洋服が下げられているだけだった。食料品売り場のガラスケースには食品が半分も満たされていなかった。街には美しいロシア正教の教会が残されているが,その入り口の階段には乞食が物乞いをして座っていた。ショックであった。共産主義国に乞食がいるなんて! 彼らも公務員なのかしらね。
エクスカーションはキエフの郊外にウクライナの民族文化の見学ツアーだった。料理はどれもおいしく,特にキノコのクリームスープは有名だ。しかし,3年前(1986年)発生したチェルノブイリ事故現場から(後で知ったのだが)このエクスカーションの地まで100㎞もない場所であった。キノコやミルクは,放射能を濃縮するので要注意ということは知っていたが,おいしい料理に食いしん坊は勝てなかった。
外国からの参加者は全員同じ(4★とおぼしき)ホテルに滞在した。食事のできるところは滞在ホテル以外になく,夕食は毎朝予約を取っておかないと食べ損なってしまう。ロシア語のできるハンガリー人の出席者に毎日全員(10数人)の予約を入れてもらう。キエフの料理はとてもおいしい。フレンチスタイルのフルコースに準じる。ある日,いつものように全員揃っての夕食会でそれぞれオーダーをして,ウオッカ,オードブルが運ばれ,スープまで進んだ。ところでメインがなかなか出てこない。強いお酒でおしゃべりが弾んではいたが,あまりに遅いのでウエイターに催促。ウエイターは厨房に行き,戻ってきた返事がなんと!「今日はこれでおしまい。料理はすべて終わってしまいました。」。耳を疑う言葉に全員口をあんぐり。後は笑うしかなかった。その時フランス人のアン・マリがバッグから何やら取り出してポケットに入れ,厨房に出かけていった。彼女がテーブルに戻ってしばらくすると,オーダーとは別ものだったが,おいしそうなメインの料理が運ばれてきた。ひもじい夜を過ごさずにすんでホッと安堵したのだった。彼女は持参のフランスたばこを袖の下として料理長に渡し交渉してきたのだ。フランスたばこは人気らしい。「よくあることよ,だから,たばこはいつも多めに用意しているのよ。」とさらりと言った。同じ日,レストランの奥では着飾ったロシア人と思しき人たちがにぎやかなパーティーを開いていたこととは対照的な,我々のテーブルの出来事であった。“もてなす”,“サービスする”という観念が存在しない国なのだろうと思った。
マルコフ氏はウクライナ独立後,故郷を去りアメリカに渡ってレーザーの会社を立ち上げた。ハンガリー人の研究者は,現在オーストラリアに住んでいる。ソ連崩壊の後,多くの頭脳が流出したのであろう。
図1 ホログラムによる博物館 キエフ 1989
図2 右から ニック・フィリップス,スティーブ・ベントン,ウラジミール・マルコフ3氏 キエフ1989
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