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CD-R事業での最大の山場は,“CDと完全互換”という開発の方向付けと市場の創出でした。名古屋工業大学 浜田 恵美子

著作権問題

聞き手:そのような流れでパソコンの方に行くわけですね。お話をお聞きしているとCD-Rは順調に普及しているように思えますが,そのころの苦労話等はございますか。

浜田:オーディオでもパソコンでもそうですが,大変だったのが著作権団体との戦いです(笑)。

聞き手:ああ,なるほど。確かにこれは非常に大きな問題ですね。

浜田:はい。ソニーからいらっしゃって,スタート・ラボの社長だった中島平太郎さんは知る人ぞ知るで,DAT懇談会の代表をやられた方で,デジタルオーディオテープでも著作権問題をやられたことがあって,CD-Rの著作権問題も対応していただきました。

聞き手:そのころのCD-Rは1枚いくらぐらいだったのですか?

浜田:当時は,著作権問題などで1枚が3,000円ぐらいしました。

聞き手:なかなかいい値段ですね。

浜田:それは要するに,CDをコピーできないような値段にしたのです。

聞き手:なるほど。

浜田:はい。ですから,著作権問題が解決するまでは結構高かったのです。

台湾企業の参入

聞き手:個人的にCD-Rを使いはじめたころの価格は1枚数100円程度だったと思いますが,価格が下がったのはいつごろですか。

浜田:そうですね。1997年に価格が大幅に下がりました。1997年の頭には1枚1,000円程度していましたが,低価格のパソコン用4倍速や8倍速のライターが普及したこともあって,年末には1枚が300円ぐらいまで下がりました。それで翌年には,CD-Rが家電量販店で山積みにして売られ,同時期に台湾のメーカーがCD-R市場に参入してきたのです。

聞き手:太陽誘電さんはどのようにして台湾メーカーと戦ったのですか。

浜田:CD-Rを取り巻く環境が変わってきたそのようなときに,ちょうど台湾からCD-Rの発明者として講演への招待があり,それならついでに台湾の状況を見せてもらおうと,台湾メーカー各社の工場を見学させてもらったのです。
 それで,それぞれの台湾メーカーがどれぐらいの規模で,どんなことを考えてやっているのかというのが見えてきまして,私自身もそのころから台湾の新聞をちゃんと毎日読むようにしていましたので,先方の状況をかなり正確に把握することができました。ですから,それに基づいて戦略を立ててやっていました。そういう意味では,特別ではありませんが,割とちゃんとやるべきことをやっていたと思います。しかしながら,後から参入して撤退していったほかの日本メーカーは,意外とそこまでちゃんとやってはいないのです。それでは負けて当たり前だと思います。

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