「もしかしたらできるんじゃないかな」と思ってやってみる(前編)東京大学 カブリ数物連携宇宙研究機構機構長 村山 斉
高校から大学院時代は紆余曲折で,研究者まっしぐらではなかった
聞き手:テレビや本から知識を吸収されて,もっと極めていこうと研究者の道を進まれたのでしょうか。村山:興味はあったのですが,研究者まっしぐら,という感じではなかったですね。小学校5年生になって,どんどんぜんそくがひどくなったので,親が転地療養のために転勤を志願して,ドイツに駐在になったのです。当時まだ分断国家だったのですけど,西ドイツのデュッセルドルフに4年間住んだら,おかげさまでずいぶん元気になりました。元気になってくると,うちの中で本を読んでいるよりは,外で遊んだほうが楽しいわけです。だから,学校が終わると,友達と下校時間まで,ずっとサッカーやバレーボールや卓球をやって遊んでいました。
そして,高校に入るときに日本に戻って来たのです。高校のときも,ラグビー部とか合唱部とかやっていました。科学研究部というのにも興味はあったので,一応入っていました。当時,やっと出始めたパソコンのキットを買ってきて,みんなでつくって,ゲームを書いて遊んでいました。
大学時代は,授業にろくに出ず一日中楽器を弾いていました。一応,物理学科に行きましたけど,周りの人もあまり知らなかったし,試験もぎりぎりになって,一夜漬けで勉強して何とか単位を取って,という感じでした。演習の時間というのがあって,一学期に少なくとも2問黒板で問題を解かないと単位が取れないのですが,冬の東大オケのコンサートが終わるまではもちろんやれません。この日に2問解かないと単位が取れないという最後の回ぎりぎりになって,仕方がないから3時間以上前に行って他の人が問題を解き始める前に黒板に書き始めました。授業の時間が近づいてくると,後ろの方から「おい,あいつ誰だよ? お前知ってるか?」という声が同級生から聞こえてくるくらい,授業には出ていませんでしたからね。今考えると,よく大学院に入れたものだと思います。
真剣に勉強をはじめたのは,大学4年生の7月末くらいにあった演奏旅行が終わってからで,秋の大学院入試に備えるためでした。今までの過去問とかを解いたり,おざなりだった教科書をまじめに読んだりして勉強したのです。このときは,本当に物理にのめり込みました。いくつかの基本原理から,自然界のいろんな現象を説明できることにワクワクしました。「ああ,やっぱり面白いな」と思って,そのとき初めて研究をやってみようかなと思いました。それまでは音楽で食っていこうかなとか,何か別の道を考えようかなとか,結構フラフラしていたのです。たぶん,子どものときに,「あっ,そうなんだ」と分かって感激したときの気持ちがよみがえってきたのだと思います。しばらくやっていなかったからこそ,かえって新鮮だったのかもしれないし,子どものときには理解できなかった言葉が理解できるようになっているから,何か1段進んだような気もしたのでしょうね。
そうやって感激して,頑張って勉強して,院試は通って,とことん根本的なことを勉強したい,素粒子を強くやりたいと思って研究室に入りました。でも,そこからまだ紆余曲折がありました。研究室に入ってみると,誰も素粒子物理学をやっていなかったのです。
当時は,今でも結構はやっているけれど,ひも理論というのが大流行していて,もちろん究極の理論と言われていますけれど,正直言って現実からかけ離れているように私は思いました。すごく数学的で抽象的な理論で,いまだに,どう実験的に検証していいのか分からないのです。「これは素粒子物理学ではない。自分はこれはやらない」と私は思ったのです。でも,それをやっていない学生というのが,日本全国にほとんどいなくて,孤立してしまいました。どうしていいのか分からなくて,そのときはこの研究の道では先がないみたいだから,修士ぐらい取ってもうやめようと思っていました。
あるとき,高エネルギー研究所(KEK)にいた萩原さんという人が集中講義に来てくださいまして,私にとっては,「そう,これがやりたかったんだよ」という話の内容だったのです。だから集中講義が終わってすぐ,「弟子にしてくれ」と言いに行ったのです。もう,最後の望みかと思って話をしに行ったら,「教えてもいいけど,自分はこれから2年間イギリスに行くから,帰ってきてからね」と。そこは決断どころで,これに一縷の望みをつないで待つことにしたのです。待っている2年間は,ちょうど高温超電導体ができたときで,週刊誌に「自分でつくってみる」という記事があったのです。るつぼを買ってきて,薬品も買ってきて,混ぜて焼くと,セラミックですからできるのです。そして,その理論をちょっと考えたりもしました。とにかく,何か現象があってこれを理解したいと思って研究室に入ったのに,そういうことができない環境だったから,そういうものを求めては行き当たりばったりの興味だけで動いていたようなときでした。
萩原さんがイギリスから帰って来て,「教えてくれると言いましたよね」と言うと,「約束は覚えているけど,1人だけ教えるのでは効率が悪いから,少なくとも7人集めろ」と言うのです。だけどにた興味の人がほとんどいない時期だったので,全国回りました。広島から1人,京都から2人,駒場から1人,筑波から1人,自分のいた本郷から2人つかまえて,やっと7人にして,「じゃあ,教えてください」って。それで合宿をやってもらったのがドクター2年生の3月。やっとひと月間本当に集中的に勉強させてもらって,すごく良かったのです。頑張ったし,興奮しました。それから自分のドクター論文書くまでにもう9カ月しかないときでしたが,そのときようやく研究を始めたという感じだったのです。
最終的に,素粒子のことを理解しようと思うと,一番大きなツールとして,加速器で実験をするとどういう現象が起きるかというのを理論的に計算するためのソフトの開発をしました。それが,私のD論になって,今でも使われています。
博士論文の審査会では,発表して,先生から質問を受けて,外で待っていると10分くらいで「おめでとうございます」と結果を伝えられるのが普通ですが,私の場合は,待ってもなかなかで,相当激論された様子で通りました。もうこれは,日本では絶対に評価されないと思ったので,アメリカに行くことにしたのです。だから,大学院生活はボロボロでした。
アメリカでは,これをやらなければいけないというのはなくて,自分の好きなことをそれぞれやるという感じがすごく強いです。しかも,自分の興味のある分野を求めて,バークレーに行ったのですが,ここでは私と興味の合う研究者にも大勢会えて,ある意味では珍しいところでした。だから,行ってからはすごくハッピーでした。しかも,面白いことに,バークレーは伝統的に分野を気にしないというのが強いのです。
バークレーでは,素粒子物理学でノーベル賞を取っている人がたくさんいらっしゃいます。加速器を発明したローレンスから始まって,反陽子を発見したセグレとチェンバレン,それから素粒子のいろいろな状態を発見した人で,ルイ・アルヴァレスという人もノーベル賞を取っています。でも,彼の一番有名な論文は,恐竜が死滅したのが隕石だという論文です。全然関係ないでしょう。そういう論文を書いちゃうのです。
そういう,はちゃめちゃと言うか,最初にやったのと全然違うことをやってノーベル賞を取ってしまうような人たちがいる環境というのは,すごく気に入りました。日本では,同じようにひも理論やらないと,「あなたはこういう人ね」とレッテルを貼られて,枠の中に入れられる感じがして,すごく窮屈だったのです。それがスパンと外れてしまった印象があって,ものすごく開放感があってハッピーになりました。 <次ページへ続く>
村山 斉(むらやま ひとし)
1964年 東京都八王子市生まれ 1986年 東京大学理学部物理学科卒業 1991年 東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了 1991年 東北大学助手 1993年 ローレンス・バークレー国立研究所研究員 1995年 カリフォルニア大学バークレー校助教 1998年 カリフォルニア大学バークレー校准教授 2000年 カリフォルニア大学バークレー校教授 2004年 カリフォルニア大学バークレー校MacAdams 冠教授:現職 2007年 東京大学数物連携宇宙研究機構初代機構長(現カブリ数物連携宇宙研究機構):現職●研究分野
素粒子物理学
●主な活動・受賞歴等
2002年 西宮湯川記念賞受賞
2003年 米国物理学会フェロー
2013年~米国芸術科学アカデミー会員