ホログラフィーは私にとって学校のようなものです。石川光学造形研究所 石川 洵
ホログラフィーとの出会い
これまでホログラフィーの製作や立体表示装置の開発といったエンジニアリング的な仕事を行ってきましたが,実は私は早稲田大学商学部出身なのです。子どもの頃から車が好きだったこともあり,大学を卒業して就職したのは,自動車会社でした。配属先は資材購買部門で,以後ホログラフィーをやるようになるまで一度もエンジニア的な仕事をやったことはありませんでした。
資材購買の仕事は結構面白く,その頃は自動車産業のみならず日本が急成長していた時代だったこともあり,世のご多分にもれず出世街道を進むべく頑張っていました。しかし,入社して何年かたち仕事にも慣れてくると,レールの上を進んで行く人生に何となくむなしさを感じ始めていたのも事実でした。これは誰でも1度はかかる病気のようなものかもしれませんが,私はそんな時にホログラフィーと出会ってしまったのです。
題名は忘れたのですが,ある科学雑誌のなかにホログラフィーの記事があり,たまたまそれを読み,非常に興味をそそられたのです。そのようなことがあって,しばらくして東京の新宿にある伊勢丹美術館で「世界のホログラフィー展」が開催されることになり,ホログラフィーとはどんなものか興味津々で見に行ったのです。
この展示会は有名な坂根厳夫さんが企画され,非常に面白いものでした。こんな世界があったのだと改めて知り,「これをやらなければ損をする」と,その時直感的に思ったのです。そこで,まずとにかく自分でやってみるのがいちばんと思い,無謀にもホログラフィーの製作を開始したのです。
私は根っからの文系人間でしたから物理学の専門書を読むことは思いつきませんでした,そこでどうしたのかというと,当時「日経サイエンス」でホログラフィーの特集があり,記事のなかにホログラフィーを作成している写真が1枚掲載されていたのです。その写真を頼りに機材を集めて,無い物は自分で作り,まったく手探りの状態で,90 cmのプレート上にホログラフィーの光学系を作ってみたのです。 最初の1枚目は失敗しましたが,2枚目には成功しました。それで「意外と簡単じゃないか」と思ってしまったのです。これは,たまたま上手く行っただけなのでしょうが,そこは文系の楽観的なところで,それがきっかけでホログラフィーの世界にのめり込んで行ったのです。
この時はまだ,会社に勤めていましたので,ホログラフィーはあくまでも趣味で,休みの日に自宅のガレージを使って製作していました。
最初の頃に作製したのはフレネルホログラムです。フレネルホログラムの再生にはレーザーを使う必要がありますが,フィルムが安くて比較的簡単に作ることができたのです。しかし,やっているうちにフレネルホログラムだけでは物足りなくなり,まだあまり知られていなかったレインボーホログラムなどにも挑戦しました。
その当時,大学の研究室でホログラフィーを研究されている方は多数いましたが,趣味の世界でアート的なことをやっている人は皆無だったこともあり,1979年に船橋西武百貨店で開催された「3D展」に作品を出展させてもらうことができたのです。それがきっかけで世界が大きく広がり,その翌年には個展を開いたりもしました。
その頃から,ホログラフィック・ディスプレイ研究会(HODIC)の方達ともお付き合いするようになり,最新の情報も入ってくるようになってきました。
ホログラフィーカメラの作製
実は,私がホログラフィーを見て心をひかれたのには理由が2つあります。1つは小学生の頃からカメラが好きで,高校生の時には写真部の部長もしていたことがあり,写真の知識があったことです。2つ目は,子どもの頃に叔父さんに連れられて見に行った1956年公開の「禁断の惑星」というアメリカ製のSF映画にあります。
この映画は知る人ぞ知る名作で,劇中にはロボットを始めとして,未来の装置が多数出てきますが,そのなかの1つに透明な半球状の内部に立体像を映し出す装置があったのです。この映像が子ども心に印象的で,ずっと頭の片隅に残っていたのです。それで,ホログラフィーを見た時にこの技術を使えば実際にその装置ができるのではないかと思ったわけです。
しかし,さすがに映画に登場するような装置を開発することは不可能ですので,写真好きだったこともあり,それならホログラム撮影用のカメラを作ってみようと思い,自宅の ガレージで作製を始めたのです。
最初に作ったのは,8×10インチのレインボーホログラム用の90 cm角のコンパクトなボックス型のカメラでした。
このカメラは自分でも結構気に入っており,実際にホログラムを撮影したりしていたのですが,ある時これを製品化できないかと思いついたのです。当時,世界でもアート向けのホログラフィー撮影用のカメラは販売されておらず,製品として売れればホログラフィーの普及にもつながります。
しかし,まだその頃は会社勤めをしていましたので,あまりおおっぴらにもできませんし,力もありませんでしたので,どこかスポンサーになってくれるような会社を探すことからまず始めました。
いろいろと調べた結果,中央精機さんならいいのではないかと思い,当時社長だった堀田さんにそのことをお話したのです。そうしたら,早速堀田さんがそのカメラを見に来られ「すごいものを作っているな」とおっしゃられ,感心して帰られたのです。
このカメラは,残念ながら製品化には至りませんでしたが,独立へのきっかけとなりました。
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石川 洵(いしかわ じゅん)氏 ご経歴
1946年生まれ。69年,早稲田大学第一商学部卒業。同年,日産自動車(株)入社。82年,石川光学造形研究所設立。88年~92年,多摩芸術学園非常勤講師。89年,石川光学造形研究所を有限会社に改組 代表取締役に就任,そして現在にいたる。日本ディスプレイデザイン協会,日本バーチャルリアリティ学会,日本映画テレビ技術協会などに所属。