日本の核融合研究にその初期の頃から携わってきた者としては,ITER計画が実現し,その目標が次世代の人たちによって実証されんことを切に願っております。東京大学名誉教授 宮本 健郎
日本光学に戻って
1961年に日本光学に復職してからの仕事は,沖電気のコンピュータ- OKITAC5090の導入にともなう計算機による光学系の自動収差補正法の開発,位相フレネルレンズの考案,新形式のマイクロ複写レンズの提案などでした。マイクロ複写に関しては,当時東大物理学教室の小穴純先生が切手大の大きさのなかに2~300ページの本を複写する究極のマイクロ複写の研究をされていて,そのレンズの設計を日本光学の故脇本善司氏が担当しておられました。私はその話を聞き,視野を広くした顕微鏡レンズを使うことを脇本さんに提案しました。顕微鏡の球面収差,コマ収差はほとんど “0” であるため,例えば5倍の大きさに拡大すると,装置は大きくなりますが,視野の面積は25倍になります。それに加え,光源に単色光を使えば,色収差補正の制約が緩和されて光学ガラスの選択が広がり,像面湾曲が補正できためさらに視野を広げることができるのです。脇本さんからは,いい提案だと褒めてもらいました。
なお,小穴先生のマイクロ複写のご業績は,半導体露光装置の発展に大きく貢献されたということをずっと後になって知りました。
プラズマ物理・核融合の世界へ
そうこうしているうちに,やがてアカデミックな仕事と会社の仕事の両立が難しくなり,中途半端な姿勢では学問的なことはできないと気付き,大学に戻って学問をやり直そうと決心しました。このような考え方ができたのは,留学により終身雇用制の呪縛からのがれられていたからかも知れません。しかしながら,当時の大学で人材を外部から公募することは希有なことでした。そのような状況のなか,1960年頃からプラズマ物理,核融合の研究分野の重要性が日本でも認識され始め,1961年名古屋大学に全国共同利用研究所としてプラズマ研究所が設置され,伏見康治教授を所長に迎え,人材の募集が行われたのです。このような状況に遭遇できたのは大変幸運なことでした。偶然この話を聞き,プラズマ物理や核融合が大変興味深い分野であることを知り,プラズマ研究所の募集に応募し1963年の秋に内定をいただきました。
日本光学を退社する際,直接の上司へ申し出る前に,脇本さんに恐る恐る相談したところ,ちょっと考えられてから「君が辞めても会社は何ともないよ。会社への説得は引き受けてやる」とおっしゃって下さいました。いろいろとお世話になった脇本さんは,その後取締役になられ,日本光学を辞された後しばらくして亡くなられたのですが,残念でなりません。
ブラズマ研究所では最初線形プラズマの実験に従事し,ブラズマの各種光学計測を担当しました。ドップラー幅によるイオン温度,レーザー散乱による電子温度,レーザー千渉計による電子密度計測などです。当時この研究所では若い世代の研究者が各分野(原子核・加速器,放電工学,電気工学など)から集まってきて,活気はあるが競争の激しい雰囲気があり,生き残りをかけて,ブラズマ物理の勉強を必死になってやりました。
核融合研究はアメリカ,旧ソ連,イギリスなどの戦勝国が戦後すぐに大型装置を建設し始め,本格的な研究を秘密裏に行っていましたが,当初の楽観的な期待とは裏腹に,異常損失のため高温のプラズマを閉じ込めることができませんでした。そこで各国は,研究成果を公表することで,世界中の研究者の協力によりブラズマの振る舞いを基礎的に研究しようということになったのです。核融合後進国であった日本や西独にとって,追いつく機会を与えられたという点で,考えようによっては幸運なことだったかも知れません。
そのような状況のなか,1968年にノボシビルスクで開催された第3回国際原子力機関(IAEA)主催のプラズマ物理,核融合研究に関する国際会議で,旧ソ連のクルチャトフ原子力研究所のL.A. アルモヴィッチが率いる研究グループが,トカマク装置T-3により電子温度1000万度Kの高温プラズマを数ミリ秒間閉じ込めるという画期的な報告をしたのです。当時は冷戦の真っ只中で東西の対立が激しい時期でしたが,アルモヴィッチは英国の求めに応じて,英国チームがレーザー散乱装置をクルチャトフ原子力研究所に持ち込むことを認め,電子温度を計測したのです。これにより,この実験報告が事実であると確認されるやいなや,世界の閉じ込め研究の主流は環状(トーラス)プラズマへと移っていきました。
この流れは日本においても同様で,プラズマ研でも研究体制の再編を始め,1969年に外部導体系トーラスによる研究計画の公募が行われました。研究計画の立案にあたっては,膨大な量の磁場計算が必要でしたが,日本光学時代に身につけたプログラミングの経験が役立ち,「JIPP-1 ステラレーター計画」を提案することができ,幸運にも採用されました。この計画は,1970年3月に装置が完成し(図1),ドリフト波によるプラズマの揺動損失や対流損失などを観測し,1971年の第4回IAEAの国際会議で解析結果を報告することができました。
図1 名古屋大学プラズマ研究所 JIPP-1 ステラレーター装置
図2 名古屋大学プラズマ研究所 JIPP-T2 装置
1974年には,東京で第5回のIAEA国際会議が開催され,日本もようやく核融合の分野で先進国の仲間入りができるようになりました。また,同年にプラズマ研の主力装置として,トカマクとステラレーターのハイブリッド型装置JIPP-T2計画が認められ(図2),多くの研究者の協力により,大きな成果を上げることができました。
<次ページへ続く>
宮本 健郎(みやもと けんろう)氏 ご経歴
1955年東京大学理学部物理学科卒業。同年,日本光学工業株式会社入社。59~61年,Graduate School, College of Arts and Science, University of Rochester, PhD 63年, 東京大学工学博士。64年,名古屋大学プラズマ研究所助教授,教授。79年,東京大学理学部物理学教室教授。92年,東京大学名誉教授。92~2000年,成蹊大学工学部教授。92~2002年,日本原子力研究所客員研究員。99~2002年,ITER物理専門家会議委員。『核融合のためのプラズマ物理』:76年,(改訂版)87年, 岩波書店 『プラズマ物理・核融合』:2004年東京大学出版会。『Plasma Physics for Nuclear Fusion』: 80年,(Revised Edition) 88年, The MIT Press。『光学入門』:95年,岩波書店。『エネルギー工学入門』: 96年, 培風館,など。